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ロンドンのシティ(昔市壁に囲まれていた1マイル四方のロンドン旧市街。金融街として有名ですね)に、「バービカン」という名の複合文化施設があります。シティの正式名称はCity of Londonで、ロンドン首都圏の一部ですが、他の32行政区とは別格の扱いで独自の警察も持っているほど独自性が強く、バービカンもシティが運営していて、隣接する公営高層住宅もやはり管轄しています。
このバービカンには大劇場、小劇場、シネマが複数ありいつも何らかのイベントが行われています。昨年(2010年)の秋、ロンドン地下鉄に乗るたびに「バービカン」というカタカナと、日の丸をあしらった服を着ている女性のポスターがあちこちの駅のエスカレーターに貼られているのを見て、私は初めてバービカンの存在を知り、同時に2月まで「日本のファッション」という展覧会が開催されていることに気づきました。
「イギリスで日本を考える」ことをテーマにしている以上、これは行ってみなければ、と11月6日の土曜日に行ってみました。その日は谷崎潤一郎の『春琴抄』を下敷きにした芝居が上演されることになっていたのでそれを観に行ったのですが、それ以外にも「日本の受け取られ方」についての多くの発見がありました(春琴抄の芝居の話は別の機会にします)。
まず、バービカンの入り口を入ると、日本のマンガ本を売っている屋台が出ていました。その隣には古い着物を売っている屋台、そして日本的なアンティークを売っている人もいました。これらのマンガは明らかに日本のものですが、台詞はすべて英訳されているのです。面白いことに、会場の説明書きには「anime and manga」となっていました。おそらくアニメは動画、マンガは紙媒体を指すのでしょう。いずれにしても、マンガはすでに英語になっています。この事実、漱石は目を丸くすることでしょう。
そして、会場には日本の歌謡曲(J-popというのですね)が大音響で流れていて、吹き抜けになっている地下のイベントスペースでは「コスプレ」(cosplay)イベントがまさに進行中でした。私は一瞬何が何だかわかりませんでした。このロンドンのど真ん中にまるで渋谷か原宿のような格好の女の子たちがぞろぞろいるのです。コスプレを紹介するために、わざわざ日本から女の子たちを招いたのかと思ったのですがどうやらそうではないようです。
このイベントのタイトルは「Barbican Cosplay Extravaganza」。日本語にするなら「豪華絢爛バービカン・コスプレ大会」でしょうか。午後6時から夜中の1時までのイベントだったようです。私が着いたのは7時過ぎだったのですが、それぞれのコスプレ(アニメや漫画の登場人物をまねした奇抜、あるいはカワイイ服)を身にまとった女の子たちがJ-pop音楽に乗って舞台に登場し、ファッションショーのキャットウォークよろしく一回りして行くのです。基本的にこれらは「素人」です。
このコスプレ・ギャルたち、半分くらいは明らかに日本人なのですが、残り半分はれっきとしたイギリス人のようです。これには、私はかなり驚きました。漱石なら卒倒したかもしれません。たしかにここ数年、フランスあたりではコスプレ文化が広まっているという報道も目にしたことはありました。しかし、この目で金髪女性によるコスプレを見るまでは、このことの意味を深く考えてみたことはありませんでした。
フランスの風刺画家ジョルジュ・ビゴーが文明開化の日本を素描したのは1880~1890年代が中心で、漱石の渡英(1900年)の一年前にフランスに帰国していますが、私の好きな絵に彼の鹿鳴館シリーズがあります。その中に慣れない窮屈な洋服と靴に身を包み、西洋ダンスを踊ったあげく、くたびれ果てて控え室で靴を脱いで座っている当時の華族の女性たちの絵があります。19世紀、まだ洋服は日本の女性の日常着ではありませんでした。日本の女性が洋服を着ることは、漱石にとっては「外発的な開化」「上滑りの開化」の滑稽な一コマと認識されていたのではないでしょうか。
それから110年。コスプレは近未来衣装とはいえ、基本的には西洋起源の洋服がベースです。その洋服を日本人が日本人のセンスで改造し、工夫して「美しさ」「かわいさ」を表現する媒体に仕上げました。そして、今それが西洋に逆流しているのです。もちろん、漱石が日本のコスプレのようなサブカルチャーをどのような評価するかはわかりませんが、少なくとも「洋服」に慣れ親しんで日常着にし、その上で当の西洋が考えもしなかった着方を開発してきたことは、「外発的開化の内発的発展」と言えるように思います。
「上滑りも徹底すれば自分のものになる」と言ったら、漱石はなんと返答するでしょうか。【2011/6/19】
投稿情報: 10:07 カテゴリー: もし今漱石がロンドンにいたら | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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ロンドンでもブライトンでも、数人分のベンチと屋根があるような少し大きめのバス停には小さな電光掲示板がついていて、「○○番のバスはあと○○分で来ます」という表示が出ています。表示の数字が10,・・5,・・2,1と減っていって、最後に「まもなく到着(due)」となります。
確かにこれは便利です。日本でもバスは時刻表通りにはなかなか運行できませんが、こちらにはそもそも時刻表が無いようなのです。バス停にも「日中は○○分おきに運行」というおおざっぱな表示しかないので、電光掲示板がないと目当てのバスが今行ったばかりなのか、もうすぐ来るのかの見当がつかないのです。
とはいえ、これもあまり信用できません。たとえばサセックス大学からブライトンの町に出るときには、「25番路線 チャーチル広場行き あと5分」と書いてあるので待っていると、突然そのバスの表示がなくなったりします。逆に「あと25分」と書いてあるのであきらめて電車にしようと駅に歩き出したらバスが来たりします。
ロンドン地下鉄のホームにもこの電光掲示は不可欠です。なぜなら地下鉄の駅にも日本で見るような「時刻表」はないからです。もちろん始発駅の出発スケジュールは決まっているのでしょうが、一度出てしまったら途中の駅でどんなことが起こるかわからないし、信号トラブルはしょっちゅうあるし、客が多くて乗り降りに時間がかかることもあるだろうし、日本のように各駅の到着時間を分単位であらかじめ明示してもその通りにならないことの方が多いのです。
でも、考えてみれば5分や10分ずれたところで命に別状はないのです。守れない約束ははじめからしない方が誠実というものかもしれません。こういうところは明らかにイギリス人は「おおざっぱ」ですが、みんなそんなものだと思っているので文句を言う人はいません。
地下鉄の改札口には各路線のシンボルカラーとともに全路線の運行状況を表示するパネルがあります。表示の種類は少々遅延(minor delay),大幅遅延(severe delay),運行停止中(suspended)、一部区間運休(part closure)、そして通常運行は(good service)です。日本人の感覚だと通常運行しているのならせいぜいnormal serviceだと思いますが、goodと言っちゃうのです。ポジティブな思考ですね。
構内アナウンスでも運行状況を伝えていますが、たとえば「ビクトリア線運休中、ベーカールー線、ジュビリー線は大幅遅延中、ピカデリー線とサークル線とディストリクト線は少々遅延中」などというとんでもない時でも、それに続けて「その他の路線はすべてgood service」と言われると、苦笑いしたくなります。
また、地下鉄も地上の鉄道も週末の運休がかなりの頻度であります。これを彼らは「計画運休」(planned closure)と呼んでいますが、これを知らずに週末に出かけようとするとひどい目に遭います。ある週末にサセックス大学で日本人学生とゼミをすることになり、ロンドンからいつものブライトン特急に乗りました。通常ビクトリア駅からブライトンまでは55分です。
ところが、いつもと同じ列車なのに途中からいつもと違う線路を走り始めたのです。車内放送を聞くとどうやらブライトンとその一つ手前の駅との間が保線工事中なので迂回するとのこと。「あれあれ、30分くらいは余計にかかるかな」と覚悟しました。しかし、列車はどんどんブライトンから遠ざかる方向に走り続けます。どうやら一度ブライトンの遙か西の海岸線(Little Hampton)まで出て、そこから海岸線沿いを東に戻るつもりのようです。
おまけにリトル・ハンプトンの駅は線路のどん詰まりなので、そこで運転手は列車の最後尾に移動し、進行方向を変えて再出発します。私はブライトンでの乗り換えが少しでも素早く出来るようにと一番前の車両に乗っていたのですが、一瞬で最後尾の車両になってしまいました。この大迂回のおかけで普段見ない景色を見ることは出来たのですが、結局普段の三倍の2時間半あまりかかってたどり着き、学生たちをすっかり待たせてしまいました。
もちろん、彼らには晩ご飯をおごりましたが、サザン鉄道に補償してもらうわけにも行かず、泣き寝入りです。列車が時刻表通り動かないくらいでめくじらたてちゃいけないのです。むしろ、こうしたハプニングを、日本人の「過剰品質」「過剰サービス」が本当に必要なのかを振り返って見るきっかけとしてとらえるべきなのかしれません。【2011/6/18】
投稿情報: 20:02 カテゴリー: ブライトン特急 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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アルカーイダよりも、イエメンの内政にとって重大な問題は二つあります。一つが北部の「アル・ホーシー派」の騒乱、もう一つが南部の分離独立派の活動です。まず、アル・ホーシー派について解説しましょう。
イエメンの主要都市は首都のサナア(標高2300m)、南部の港町アデン(旧南イエメン時代の首都)、その中間にあるタイズ(標高1000m)、紅海沿岸の港町ホデイダ、東部ハドラマウトの港町ムカッラなどがあります。そのほかに北部のサウジとの国境近くにサアダという町があり、特に北部部族勢力の拠点として重要です。
そして、サナアから山岳道路を通ってサアダに抜ける途上に「アル・ホウス」という町があります。アラビア語で「アル」は定冠詞、英語のtheに相当します。Howthの形容詞形はHowthy、すなわち「アル・ホーシー」は文字通りには「ホウス地方の」を意味する形容詞です。また、同時にその地方の出身者の名字のような使われ方をすることもあります。今回の一連の出来事は「アル・ホーシー」を名乗る家系の人が主導しているので「アル・ホーシー派」と呼ばれています。
新聞などの報道では「イスラム過激派」とか「イスラム原理主義」とか書かれている例もあるようですが、どちらも正確ではありません。アル・ホーシー派は現在のサレハ政権の北部部族領域に対する政策に不満を持つ人々がイスラムの知識人である「アル・ホーシー」に共鳴してその旗の下に集まっている、というきわめてローカルな性格の集団です。
現在のイエメン共和国は1990年に「イエメン・アラブ共和国(北イエメン)」と「イエメン人民民主共和国(南イエメン)」が統一して出来たのですが、旧北イエメンは1962年まではイスラム教ザイド派のイマーム(聖俗両面の指導者)の支配下にありました。このザイド派というのは8世紀以来北部イエメンの支配的な宗派で、イエメンを支配した歴代イマームは基本的にこの宗派の最高権威です。そして、イマームはいくつかの有力家系の中から選ばれるのですが、その中の最有力家系「ハミード・アッ・ディーン」家の根拠地は「アル・ホウス」周辺でした。
「アル・ホーシー」ももちろんこのザイド派の宗教知識人です。そして、ザイド派は、イスラム教のシーア派の一派です。このことから、欧米の単純な人々はすぐに「イランの陰謀」という筋書きを作るのですが、一口に「スンニ」と「シーア」と言ってもいろいろあります。旧北イエメンのサナアから北はほぼすべて「ザイド派」で、それ以外のタイズ周辺、紅海沿岸、内陸砂漠部はスンニ派に属する「シャーフィー派」に属し、人口はほぼ半々でした。旧南イエメンはほぼすべて「シャーフィー派」で、南北統一に伴い、宗派バランスでは「ザイド派」は過半数を割っています。しかし、サレハ大統領はザイド派です。
しかし、イエメンの政治においては宗派(スンニとシーア)はほとんど意味を持って「いません」。サナアにはザイド派(シーア)の人もシャーフィー派(スンニ)の人も混在していますが、同じモスクで礼拝することが出来ます。ザイド派は「シーアの中で最もスンニに近い」といわれているのです。ですからイラクやイランの紛争を頭に置いて、ホーシー派がシーアなのでイランが介入している、などと単純に決めつけるのは危険です。繰り返しますが、サレハ大統領は北部部族の出身ですから、アル・ホーシーと同じザイド派なのです。
もちろん「アル・ホーシー」は現在の国の宗教政策に不満はあるでしょうが、むしろ勢力を拡張したのは宗教的な主張の故ではなく、経済的にも政治的にもあまり優遇されていないと感じている北部部族地域の不満があるからです。これこそが、サレハ政権の危機なのです。サレハ大統領は北部部族地域については部族の代表者を通じて間接統治をしてきました。その代表者の筆頭が「アハマル家」でした。アル・ホーシー派の反乱は、このアハマル家を通じた間接統治が有効でなくなったことを示しています。そして、サウジとの国境地域には、サウジ王家から直接補助金をもらって軍備を整えている様々な部族がおり、こうした人たちが結集すれば国軍に対抗できる軍事力となるのです。
アル・ホーシー派の反乱は2006年頃から本格化し、いくつかの地方都市を実質支配することもありましたし、2008年には首都サナアのすぐ北東の「バニー・ホシェイシ」地区まで進軍したこともあります。その後政府軍が盛り返して2010年はじめにはサアダ周辺で激しい攻防戦があり、サウジ軍もアル・ホーシー派を空爆したこともあるようです。この問題はサウジをはじめGCC諸国の懸念を招き、カタールなどの仲介で何度か休戦協定を結ぶところまで行きましたが、決着はしていません。そうこうするうちに2011年2月からの「民主化デモ」が始まったのです。
現在アル・ホーシー派の動向はあまり報じられませんし、ひと頃に比べて軍事行動は下火にはなっているかもしれません(というより、国軍がそれどころではない状態でかまっていられないのでしょうが)。しかし、基本的にサレハ政権の北部部族地域政策に対する積み重なる不満がある状況は変わっていません。他方、サナアなどで行われている「民主化デモ」と「アル・ホーシー派」とはほとんど接点はないと思います。
大切なことは、 どのような形であれ、「サレハ後」の時代がやってきたとしても、「アル・ホーシー派」問題は、「アルカーイダ」よりもイエメンの内政安定のためにはより重要な課題であるということを忘れないことだと思います。【佐藤寛 2011/6/18】
投稿情報: 09:46 カテゴリー: イエメン・ウォッチング | 個別ページ | コメント (1) | トラックバック (0)
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ブライトン特急の各車両のドアの上には「CCTV監視中」という注意書きが書いてあります。CCTVとは「Closed Circuit Television」の略です。「内部監視カメラ」ですね。もちろんロンドン地下鉄のすべての車両にもこの警告があります。
ブライトンの町なかからサセックス大学に行くには列車でもいけますが、バスを使うことも出来ます。ブライトンの市バス「25番路線」は大学行きの2階建てバス(double decker)で、運行頻度も多くて便利なのでいつも学生でいっぱいです。このバスの2階席には「Smile please, you're on Camera」と書いてあります。「監視カメラに写ってます。笑顔で」でしょうか。最初はちょっと違和感を感じましたが「見られているのだから、悪いことするなよ」というメッセージなのですから、これでも良いのでしょう。
よく見ると、イギリスは列車やバスに限らず、建物の出入り口、歩道などあらゆるところCCTVだらけです。日本でも繁華街などに設置されている例もありますが、人々の間には抵抗感が強いように思います。しかしこちらでは普通に生活している限り監視カメラの眼から逃げることはほとんど不可能なようで、人々もこれを受け入れているように思います。日常生活の隅々まで誰かに見られているというのはあまり気持ちの良いものではありませんが、それがなければ犯罪がもっと発生して、自分の生活が脅かされるのであれば、仕方ないとあきらめるしかないのでしょう。
CCTVは防犯目的、つまり悪事をしようとする人が「これが撮られていたら捕まるかも」と思わせることによって犯罪を抑止する効果を狙っているわけで、警察官のパトロールと同様の効果があります。しかし、実際に捕まらなければこの抑止効果は失われます。そこで犯罪が起きた場合はCCTVの記録映像を利用して犯人の特定、捜査が行われます。
ある日、動物虐待の罪で女性が逮捕されたというニュースをやっていました。そのきっかけとなったのが、生きている猫を道路に設置されている収集用のゴミ箱(幅2メートル、深さ1.5メートルの大きな蓋付き容器)に放り込んでいるCCTV映像で、それがテレビでも全国に放映されていました。つまり、住宅街のゴミ箱の近くにもCCTVが設置されているわけです。
視聴者に犯罪映像を見せて、通報を呼びかける番組(Crime Watch)もあります。地方都市の宝石店に押し入ってショーケースをたたき割っている場面や、街角のよろず屋に押し入ってレジからお金を奪っていくシーン、あるいはピザ宅配チェーンに乱入して店員を脅しているシーンなどがCCTV映像として紹介され、「この映像に映っている人物に関する情報があればこちらまで通報願います」という具合です。確かにこれによって逮捕に至るケースもあるのでしょう。いわば西部劇の「お尋ね者(Wanted)」ポスターの現代版ですね。
しかし、犯罪者の方もCCTVがあることを予想して覆面をして犯行に及ぶし、中にはCCTVの設置されている鉄の街路灯を電動のこぎりで切り倒そうとする人(そのシーンがCCTVに記録されているのですが)まで出てくる始末。これはいたちごっこです。確かに、人間によるパトロールと違ってCCTVは24時間常時監視できるので監視効果は高いですが、無限に増やすわけにはいきませんし、昨今の経費削減で既存のCCTVの維持費捻出も難しくなっています。
それにしても、私にとっては上の番組で紹介されたような凶悪犯罪がそんなに頻繁に発生しているという事実の方が驚きでした。手口はきわめて原始的。とにかく鉄のバールなどを持って乱入し、大声でわめいて金を出させ、奪って逃げる(自動車で逃走する場合は、屋外のCCTVにナンバープレートを撮られてしまいます)というものです。捕まるリスクが高いことがわかっていてもこんな計画性のない犯行に追い立てられる人がたくさんいるということに、イギリス社会の病理が潜んでいるように思うのです。【2011/6/17】
投稿情報: 19:47 カテゴリー: ブライトン特急 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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イギリスでは警官・巡査を親しみを込めてBobbyと呼びます。日本語にすると「お巡りさん」というニュアンスでしょうか。BobbyはRobertという男子名の愛称ですが、ロンドン警察を設立したSir Robert Peelにちなんでいるそうです。話はそれますが、東京で警視庁を創設したのは川路利良ら薩摩藩士が中心でした。このため巡査たちは薩摩弁丸出しで「おい、こら」と庶民に呼びかけていたので、江戸っ子は警官のことをかげで「おいこら」と呼んでいたそうです。Bobbyの方がよほどましですね。
別項でお話ししたように道路清掃人(street cleaner)はいたる所にいるのですが、繁華街で道路清掃人以上に目につくのは警官の姿です。大きな地下鉄の駅や賑やかな交差点にはほぼ必ず巡視中の警察官の姿を見つけます。また、黄色と青のチェッカー模様のパトロールカーもあちらこちらに止まっています。
パトロール中の警官はたいてい二人一組で、防弾用のパッドの入ったベストを着ているのでかなり着ぶくれ気味で、肩のところに業務用携帯電話をさして歩いています。警官には女性も多く、また人種も多様です。二人一組なのは、暴漢などに襲われたときのための自衛策でしょう。日本の警官が通常一人でパトロールするのとは違いますね。もっとも日本には「交番」があって、そこに複数の警官が詰めていますが、こちらには交番はありません。
それ以外にも、パトロールカーや自転車(1896年に世界で最初に自転車を採用したのはロンドン警察です。これまた二人一組)のパトロールを見かけます。また、住宅街では正規の警官ではなく、自治体(council)に雇われた警備員や、住民ボランティアなどが警官のような服を着て巡視している場合も少なくありません。
こちらに住み始めてまもないある土曜日の午前中、ロンドンの静かな住宅街の自宅にいたら、遠くから「パカパカパカ」というリズミカルな音が聞こえてきました。何事かと思って窓から下をのぞいたら、家の前のアスファルト道路を二人の騎馬警官(mounted police)がゆっくりとパトロールしていました。優雅ですね。確かに馬に乗ると眼の位置がかなり高くなるので視野が広がり、巡視には向いているのかもしれません。いずれにせよ、この国ではまだまだ馬が現役です。
徒歩にせよ、自転車にせよ、騎馬にせよ、また正規の警官にせよ公的な警備員にせよ、これほど頻繁に巡視しているということは、ロンドンではそれだけ様々な犯罪リスクが高いということを意味しています。大通りなどを歩いていれば日中は大きな凶悪犯罪に巻き込まれる確率は低いですが、地下鉄の駅や繁華街でのひったくりなどは日常茶飯事です。これは、世界中からいろいろな人が集まるグローバルシティーの宿命でしょう。
ロンドンのこうした光景を見慣れた外国人が東京を訪れると「こんなに警官が少なくて(目立たなくて)治安が維持できるのか」と不安になる、という話を聞いたことがあります。確かに日本の犯罪発生率の低さは世界に誇れるものがあります。東京は日本で教育を受けた日本人が社会の大半を構成していますから、誰がどんなことやらかしそうか、そして何をやったら「やばい」のかの相場観=社会通念が共有されているのです。だから、最低限の巡視活動でも治安が維持できるのでしょう。
これに対してロンドンでは観光客も含めて、イギリス以外で生まれた人、イギリス以外で教育を受けた人が社会の過半数を占めています。中には言葉も満足に通じない人も少なくありませんし、イギリス人とは全く異なった価値観を持つ人も数多く生活しています。こうした社会では「社会通念」の共有は不可能で、誰が何をするのかはほとんど予測できないし、食いっぱぐれた人々の道徳的自制心に期待することは困難です。だからこそ警察力を総動員してこうした事態の予防に努める必要があるのでしょう。
しかし、2010年に成立した保守連立政権が打ち出した「支出削減(Spending Cut)」は警察の予算も直撃し、ロンドン警視庁(Scotland Yard)は「これでは首都の治安を守れない」と抗議しています。その説明によれば、二人一組のパトロール体制を維持するには交代要員、本部でサポートするスタッフを含めて最低六人が必要とのことです。日本ではパトロールにどれくらいの人員を費やしているのかはわかりませんが、これほど高コスト体質ではないように思います。しかし、このコストは節約すれば治安悪化につながるという意味で削減の難しい項目で、政府と警察の綱引きが続いています。
とはいえ、実は今回の支出差削減のよほど以前から、イギリスでは警官不足を前提として犯罪予防と捜査に機械を活用する方向に舵を切っています。その話はまた別の機会に。【2011/6/16】
投稿情報: 22:38 カテゴリー: ブライトン特急 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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***50回連載目標の半分まで来ました。ネタ切れにならないか心配ですが、あと少なくとも25回は続けてみたいと思います。すでにお気づきの方もいると思いますが、毎日の「英単語」はアルファベット順に選んでいます。今日から再びAに戻ります。***
ロンドンに限らず、イギリスの博物館、美術館は「入場無料」(Admission Free)のところが多いです。世界の博物館ともいえる大英博物館もこの例に漏れません。巨大な施設を維持するのに「入場無料」でどうしてやっていけるのでしょうか。
資金源はいくつかあり得ます。一つは公共予算。国や地方自治体の予算で職員などの経費をまかなっている施設も多いと思います。ロンドンの大英博物館、マンチェスターの科学産業博物館などはこの例でしょう。大英帝国の威信をかけた国家的事業です。
二つ目は「財団」(trust)。博物館や美術家の中には貴族や大金持ちが個人的に集めたコレクションをもとに開設されたものも少なくありません。しかし、蒐集家であった人が亡くなったあともこれを維持する意欲や能力や財力を子孫がずっと維持できることはまれです。そこでどこかの段階で、収集品を遺産とともに「財団」に寄贈し、遺産を元手に投資などで運用しながら維持費をまかなうという方法もしばしばとられているようです。これは、イギリスが「身分社会」で貧富の差が激しかったからこそ可能になった形態といえるでしょう。
三つ目の資金源として「多国籍企業」「優良企業」の隆盛に伴い、特定の企業が展示の一部を全面的に支援し「スポンサー」として名前を出すこともあります。イギリス近代美術コレクションで知られる「テートブリテン」の今年の企画展を多国籍企業BPがサポートしていました。企業から見れば、これは企業の慈善活動(philanthropy)の一部です。
四つ目は一般の人々からの「寄付」(Donation)です。ほとんどの博物館・美術館は入場無料ですが、必ず入り口に「寄付金入れ」があります。また、「友の会」会員になってもらい、いろいろなイベントに招待される特権と引き替えに会費を募るという方法も一般的です。さらにかつての貴族や資産家の「遺産」(Legacy)を財団の基金に寄付することも行われています。
五つ目は「シッョプ」の利益です。ある程度の規模の博物館・図書館にはその施設の「お土産・特注グッズ」を売る売店や、カフェなどがあり、そこからの収益も多少は維持管理費に回るでしょう。これは、日本でも行われていますね。
もちろん中には、経営の苦しい博物館・美術館もあるでしょうが、人気のあるところはおおむねこの入場無料の建前で運営しています。これには、イギリスに寄付の風習が根強くあることが貢献しているように思います。ざっくり言えば「貧乏人は出さなくて良い」が「金がある人は相応の負担をしなさい」という社会規範です。これもまた、有産階級と無産階級がはっきり分かれている、身分制が未だに色濃く残っている、職業によって給与水準が天地ほども違う、という「不平等社会」だから成り立つ仕組みです。とはいえ、芸術・文化の維持には欠かせない規範かもしれません。
ところで「金のある人は相応に出す」ということは、一つのサービス(展示品の鑑賞)に対して、異なる料金を払う「一物多価」のシステムです。近代的な商品市場はデパートなどの「定価販売」のように、通常「一物一価」が原則ですね。もっとも最近では、デパートも「会員様ご優待」という「一物多価」システムを取り入れていますが、これはたくさん買う財力のあるお得意様が得をする仕組みです。
これに対して「金のある人は相応に出す」というのは、財力のある個人が自発的に「損をする」ことを期待するという点で180度異なります。経済的には何一つ得になることはないのです。もちろん、寄付者名簿に名前が載る程度のメリットはあってもたかがしれています。こんな不可思議な原則が資本主義市場の発祥地イギリスでいまだに機能していること自体が興味深いですね。
そしてお金がない人は、寄付をせず、ショップでも買い物をせず、カフェにも寄らずに鑑賞だけして帰ることが出来ます。それそがAdmission Freeの原則、つまり「身分貴賤の隔てなく、芸術や知識にアクセスできるべき」という精神なのです。もちろん、金持ちでも払いたくなければ一文も払わなくても文句は言われません。個人の良心に任されているのです。2009年の大英博物館の入場者数は560万人だそうで、もしも入場者一人あたり5£(700円)でも取れば、2800万ポンド(40億円弱)の収入になる計算ですが、そんなことはしないのです。これは「文明国の風格」と言うにふさわしい態度といえましょう。
ところで、お金のある人だけが相応に払う、という価格体系は実は現在、途上国の社会的ビジネス(Social Business)で注目されています。これをクロスサブシデイー(Cross Subsidy)といいますが、たとえばインドで社会起業家がやっている都市の救急車サービス(公共の救急車は頼りにならないので民間のサービスが求められてます)は、お金のある人からは多めに料金を取りますが、貧乏人からは料金を取りません。この結果、貧乏な人でも救急医療にアクセスが可能になり、救える命が増えるのです。また、やはりインドで心臓手術を専門に行うナラヤナ・ヒュルダヤラヤ社は、患者の収入に応じて異なる手術料金を請求し、最貧困層は無料で手術が受けられるようにすることで、貧困層の命を救っています(UNDP『世界とつながるビジネス』)。
クロスサブシディーの仕組みは、金持ちが貧乏人の分まで払うことによって成り立っています(つまり、消費者間の補助金ですね)。これは通常の市場原理からは逸脱した行為ですが、「世の中は持ちつ持たれつ」という世界観の中にあれば、特に不思議なシステムではないのかもしれません。
【2011/6/15】
投稿情報: 23:30 カテゴリー: ブライトン特急 | 個別ページ | コメント (1) | トラックバック (0)
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アメリカやイギリスにとって、イエメン問題はイエメン国民のために問題なのではありません。自国の安全保障のための問題なのです。それは、「アラビア半島のアルカーイダ(AQAP)」と呼ばれる集団がイエメン南部に潜伏していて、そこから米英に対するテロ攻撃を仕掛けている、という認識があることに基礎をおいています。
2009年のクリスマスにアメリカで飛行機に自爆爆弾を持ち込もうとしたナイジェリア人が逮捕される事件がありましたが、その人物はイエメンのAQAPの基地で指導を受けたとされ、多くの英米の国民の間では「9.11」の恐怖がよみがえり、それ以来AQAPは欧米の諜報機関の危険リストの上位に躍り出たのです。
さらに2010年10月末にカタール経由でイギリスに届いたイエメンからの航空貨物の中に爆発物が発見されるという事件がありました。これもAQAPの犯行であるとされたため、「手遅れにならないうちにイエメン国内のアルカーイダのアジトを空爆すべき」との世論が高まっていました。
また、今回のイエメンでの政治的混乱で「アルカーイダがイエメンの政権を乗っ取るのではないか」という荒唐無稽な危機感をあおる人もいます。もちろん、テロへの恐怖感は理解できますが、今回のイエメン政治的混乱とAQAPとの関係は限定であることをまず理解する必要があります。また、欧米にとっての重大問題と、イエメン自身にとっての重大問題を混同することは、イエメン問題の適切な解決にとってはむしろ障害となるでしょう。イエメンにおけるアルカーイダ問題の特質を三点を指摘しておきます。
第一にイエメンの現在の政治的混乱とその解決にとってAQAPはマイナーな問題です。二月にデモが始まるまでのサレハ政権の最大の問題は「北部のアルホーシー派の反乱」と「南部の分離独立派の反乱」の二つでした(これらについては後ほどご説明します)。
これらはいずれもサレハ政権の国内掌握力の衰退を示す出来事で、この結果としてイエメン中南部の部族領域(アブヤン、シャブワなど)にAQAPが「秘密訓練施設」を確保できる状況が生まれたのです。しかし、いわゆるAQAPのメンバーはせいぜい数十人というのが大方の専門家の意見で、特定の地域を「占拠」しているのではなく、部族長の許可のもとに「居候」している状況でした。
第二に、サレハ政権にとってAQAPは脅威ではありませんでした。イラク、アフガニスタンから追い出されてイエメンに流れ着いたアルカーイダにとっては政府の掌握力の弱いイエメンは理想的な「安全地帯」で、弱体化するサレハ政権に続いてほしいと考えています。このためAQAPは基本的にはサレハ政権に対する攻撃は一切しておらず、あくまでも欧米への攻撃のための「訓練地」として機能していたので、イエメンの国内政治にはほとんど影響がなかったのです。
第三に、AQAPを問題視しているのは欧米であり、これを利用してサレハ大統領はAQAPの存在を理由にアメリカからの軍事援助を最大限引き出すことに尽力してきました。この軍事援助を利用して、アルホーシー派、南部分離派の掃討作戦を行うためです。
こうした状況下で、6月3日(金)の大統領府砲撃(空爆ではないと思いますが)によってサレハ大統領が重傷を負い、サウジに搬送されて手術を受けるという事態になりました。これによって、イエメンには「権力の空白」と呼ばれる状況が発生しています。欧米メディアはこの権力の空白を利用して暴力的な勢力が伸張するのではないか、「内戦状態」に陥るのではないか、という懸念を表明しています。
これと同時にアメリカはイエメン領内での無人機による空爆を本格化しているのです。もちろん名目はAQAPの掃討です。しかしいかに弱体化しているとはいえ、イエメンは主権国家です。その国に外国の軍用機が、その国の政権の意向とは無関係に自由に作戦を展開しているのです。これはオサマ・ビンラーデン殺害作戦を、パキスタン政府の許可なしにパキスタン国内で実施したことと同様の構図です。すなわち、権力の空白を最大限利用しているのは米国ともいえます。
こうした軍事行動は、今後のイエメンの政治的安定、アメリカをはじめとする欧米諸国との関係に大きな禍根を残す可能性があります。もし、現在の政治的混乱の収束のために外国が介入するのであれば、必要なのは軍事介入ではありません。まずサレハ大統領の政権委譲プロセスを円滑化するための支援をし、次の政権の安定化を図りつつその政権と協力してAQAP対策を講じるべきでしょう。もちろん、そんな悠長なことを言っていられないという人もいるでしょうが、それはあくまでも外国人のエゴです。
イエメンが不安定なままでは、どれほど無人攻撃機でAQAPのアジト攻撃に成功しても、次から次へと反欧米メンタリティーを持つ人々を増やすだけで、むしろ潜在的な脅威が増すばかりであるということを、きちんと把握するべきではないでしょうか。
【佐藤寛 2011/6/15】
投稿情報: 17:19 カテゴリー: イエメン・ウォッチング | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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私は日本ではあまり映画を見ないのですが、こちらに来てクロサワ映画を二度見に行きました。日本映画をイギリス人がどのように見ているのかを知りたかったからです。
一度目は、ロンドンから列車で2時間ばかり南に行ったチチェスターという小さな町の公共映画館で『生きる(1952年作品)』を見ました。南イングランドはそもそもローマ人がイギリスを占領したときの根拠地になったところなのでローマ時代からの町もいくつかあり、チチェスターもその一つです。町の真ん中に大きなカテドラルがあり、その横にとても手入れの行き届いた美しい庭園があります。かつては、この教会を中心にして市壁に囲まれていたようで、所々に市壁の跡が残る、こじんまりとして品のある町です。
さてこの町では、町民ホールのような建物の中に小さな映画館もついていて、世界中の名画を上映しているのです。あるとき何かの拍子にここで「生きる」を上映するということを知り、サセックス大学のあるブライトンから列車で海沿いに一時間弱西に向かってたどり着きました。旧市壁の外側に面した緑豊かな公園の中に映画館はあり、定員104人の席に20人くらいの観客で、日本人は私のみ。あとは地元の品の良さそうな中年以上のイギリス人です。
『生きる』は第二次世界大戦後、高度成長前の日本の都市を舞台にしているので開発研究者としての私にとっては映像資料的にも興味深いのですが、それはさておきメルヘン・ドキュメンタリー的なストーリーはわかりやすく、また主人公が夜の町を飲み歩くシーン(キャバレー、ダンスクラブなど)はまさに「西洋かぶれ」的な設定が多くて、イギリス人にも違和感なく理解できるでしょう(最初は居酒屋から始まるのですが)。観客は最後まで、じっくりと見てそれなりに満足そうに帰って行きました。特にエキゾチズムを感じるでもなく「名画」として堪能していた、という感じです。もちろん、みなさんクロサワが何者であるかは十分に予備知識が備わっている風でした。
2度目は『七人の侍(1954年作品)』で、これはロンドンの一大カルチャーセンター「バービカン」のシネマで見ました。このときは大きなスクリーンで、観客も100人ほどはいたと思います。場所柄こちらに住んでいる日本人が1/3ほど、残りは日本に行ったことがある、日本に興味があるという風なイギリス人が多かったように思います。アフリカ系の人はほんの少し。
筋は単純バトルストーリーですから問題ありませんが、英語字幕で三時間半にわたる大作ですから、結構疲れると思うのですが皆さん最後まで飽きずについてきてました。また舞台設定は中世の日本ですから着ているものや風景にエキゾチズムはあるのですが、この作品はこのあと西部劇に翻案されたり、宇宙ものに翻案されたりと多くの欧米の映画に「模倣」されたくらいですので、服装や風景は筋立て理解の妨げにはならないのでしょう。これまた予備知識のある人は十分に楽しめたという感じです。
つまり「クロサワ」がどこの国の人であるかには関係なく、イギリスの映画好きの人たちの中には「常識」の一部として受け入れられ、咀嚼されているのだ、ということがよくわかりました。
さて、では漱石が今イギリスにいてこの状況を見たらどう考えるでしょう。まず、映画が発明されたのは1888年、日本にこれが紹介されたのが1896年ですから、「活動写真」というものの存在にはもちろん漱石は気づいていたでしょう。1897年には日本でも輸入映画の興行が始まっており、国産映画も1899(明治32)年には最初のものが出来ています。これは漱石の英国留学の一年前です。漱石が英国留学中にイギリスで映画を見た形跡はありませんが、帰国後は落語・講談好きの漱石ですから、もしかしたら一度くらいは日本で見たかもしれませんね。
漱石の言う「上滑りの開化」のなかに、こうした西洋起源の活動写真を使った娯楽が含まれていたかどうか、私には興味深いテーマです。確かに技術的には西洋起源ですが、最初の国産映画は『芸者の手踊り』を実写し、歌舞伎座で上映したものだそうです。完全に伝統芸能の世界ですね。最初のストーリーもの映画は同じ明治32年に封切られた『ピストル強盗清水定吉』で、日本で最初の拳銃事件を題材にしたものでした(このあたり、ウィキペディア情報に基づいています)。
こうしてみると、日本の映画産業は当初から、西洋の技術を用いて国産のコンテンツを作るという「ハイブリッド」の萌芽が見られるのではないでしょうか。また世間を賑わした事件を題材にして芝居にするというのは、近松門左衛門が得意とした手法ですから、従来の日本の興業文化とも連続性がありますね。
映画の場合は日本が開国した後に西洋で発明されているのでキャッチアップが容易だったこと、ソフト産業なので日本の国情にあったコンテンツ作ることが出来たことなどもあり、漱石の言葉で言えば「内発的な開化」の道筋をたどった例と言えるかもしれません。
漱石の小説にあんまり映画が出てこないところをみると、自身は好きではなかったのかもしれませんが、漱石は時代劇は好きだったようなので『七人の侍』がその後西洋の映画監督のお手本になった、という事実にはまんざらではない、という顔をするのではないかと思います。【2011/6/15】
投稿情報: 07:58 カテゴリー: もし今漱石がロンドンにいたら | 個別ページ | コメント (1) | トラックバック (0)
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ビートルズの有名なレコードのジャケットにアビーロードの横断歩道を四人が渡っている写真がありますね。このアビーロードはロンドンの郊外にありますが、今でも観光客がこの構図で写真を撮ろうとするので、道路が渋滞するそうです。
さて横断歩道(zebra / pedestrian crossing)の渡り方には、国民性が表れるもので、きまじめな日本人とドイツ人は赤信号の時には、自動車が来なくても待っている、と冗談めかして言われることがありますね。これに対してイギリスでは、車が来なければほぼ確実に歩行者は信号無視をして渡ります。それで車にはねられたら歩行者の過失。自己責任の原則です。
そうした歩行者を前提としているのか、足下には車の来る歩行がどちらかを明示して「look left」か「look right」と書いてあります。イギリスでは横断歩道を渡るときには通常一方向だけに注意していれば良いのです。これは、一方通行(one way)の道路が多いからです。
では、大通りなど対面通行の時にはどうすればいいのでしょう。たまに「look both sides」と書いてあるときもありますが、通常はまず「look right」です。イギリスは日本と同じ左側通行ですから、対面交通の道路ではまず右から来る車線を渡ることになるからです。そして、道路の真ん中の安全地帯で歩行者は一旦停止するのです。そして次に「look left」でめでたく道路の反対側にたどり着きます。
大きな道路の横断歩道にはほぼ必ず真ん中に安全地帯があり、ここに立っているときに自動車にはねられた場合は、自動車に過失があることになるそうです。そして交通量が多い道路の場合は腰の高さまでの鉄の柵で囲われている場合も少なくありません。その場合は安全地帯の両端に二つの横断歩道への出入り口があります。すなわち、歩行者はジグザグに歩かないと反対側に行けず、一本の道路を渡るのに二つの横断歩道を渡ることになります。これは歩行者を「一度で渡らせない」ための設計です。ここにも設計で人の流れを制御する発想が現れていますね。
幅の広い車道を一度で渡ろうとすると、信号が変わる間際には全力で走って駆け抜けようとする人が出てきます。またお年寄りなどは青信号の間に一度で渡りきれない場合もあり、いずれも大変危険です。そこで、歩行者の流れを一度道の真ん中で中断させるわけです。場合によっては安全地帯の両側の信号が独立している場合もあり、安全地帯に着いてからボタンを押さないと反対側に渡る横断歩道が青信号にならないこともあります。
観光客もロンドンに到着した初日はまじめに信号を守っていますが、二日目になると見よう見まねで信号無視を始めます。バスの運転手さんたちには頭の痛い状況だと思います。最近はロンドン貸し自転車(Cycle Hire)を観光客も利用出来るようになったので、ますますロンドンの道路は危なっかしくなりつつあります。ちなみに、イギリスでは自転車は専用路がないところでは車道を走らなければなりません。自動車と同様一方通行の逆走はしてはいけないのです(これまた自己責任で無視している人も多いですが)。
ところで、たとえば三本の大きな道路が交差するロータリーなどでは反対側に行こうとするときには、普通の仕組みだと三本道路を渡るために、六回横断歩道を渡ることになってしまいます。これはいくら何でもまどろっこしいですね。そこで、ロンドンの町中ではすべての方向の歩行者が一斉に渡るスクランブル方式を採用するところが出てきました。これは、ロンドン市長が訪日したときに渋谷の交差点から学んだという説もありますが、真偽のほどは知りません。
また、週末の都心の繁華街では、歩道も買い物客や観光客で大混雑しています。そこで、歩道にも「ゆっくり路線(slow lane)」と「通過路線(fast Lane)」を作り、ウィンドーショッピングをしたい人と、ただ通り抜けたい人の流れを分離してはどうか、という実験をしている人がいるようです。これもまた設計で人の流れを制御する発想ですね。しかし、これはあんまり評判が良くないようです。歩道くらい勝手気ままに歩きたいですよね。
さて、基本的に人間の良識を信用しないイギリスの道路にも例外はあります。それは交通量の少ない道路の信号がない横断歩道に見られる「黄色いあんどんポール」です。このポールもやはり白黒のゼブラ模様に塗られていますが、これがあるところは歩行者優先なので、自動車は必ず停止しなければなりません。これはドライバーの良識に依存するシステムです。
この種の横断歩道を渡るときだけは、私も「さすが紳士の国」とほめてあげたい気持ちになります。【2011/6/14】
投稿情報: 23:50 カテゴリー: ブライトン特急 | 個別ページ | コメント (0) | トラックバック (0)
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