「開発援助と社会学」勉強会、2回目で取り上げた書籍を紹介します。
今一生『社会的起業家に学べ!』アスキー新書 2008
ジョン・ウッド『マイクロソフトでは出会えなかった天職・僕はこうして社会起業家になった』
2007 ランダムハウス講談社
金子郁容『ボランティア-もう一つの情報社会』岩波新書1992
籠山京『籠山京著作集第一巻 ボランタリー・アクション』ドメス出版 1981
「開発援助と社会学」勉強会、2回目で取り上げた書籍を紹介します。
今一生『社会的起業家に学べ!』アスキー新書 2008
ジョン・ウッド『マイクロソフトでは出会えなかった天職・僕はこうして社会起業家になった』
2007 ランダムハウス講談社
金子郁容『ボランティア-もう一つの情報社会』岩波新書1992
籠山京『籠山京著作集第一巻 ボランタリー・アクション』ドメス出版 1981
投稿情報: 16:01 カテゴリー: 開発と近代化について考える | 個別ページ | トラックバック (0)
| リブログ (0)
2009年前半、仲間と一緒に「開発援助と社会学」について考える勉強会(合計10回)を行いました。そこで取り上げた書籍を順次紹介していきます。
テーマ:社会の発展に法則はあるのか
課題図書:
『世界の名著36 コント スペンサー』中央公論新社 1976の中の「社会静学と社会動学」中の「社会動学」の部分(pp.279-333)
村井久二『コントとマルクス』日本評論社 2001
北川隆吉『有賀喜左衛門研究―社会学の思想・理論・方法 』(現代社会学叢書) 東信堂2000
投稿情報: 11:37 カテゴリー: 開発と近代化について考える | 個別ページ | トラックバック (0)
| リブログ (0)
イスラム世界では、今日から年に一度の断食月(ラマダン)が始まります。これは一ヶ月間毎日、日の出から日没までの間、すべての飲食(水もダメ)を断つという苦行です。その代わり、日没後は普段の月よりもたくさんごちそうを食べるので、この月の食糧消費量は、他の月よりもたいてい多くなります。
それでも、イスラム教徒は「空腹に耐えることで、貧しい人の気持ちを分かち合える」というメリットをよく指摘します。また、ラマダン月は「神聖月」とも呼ばれ、すべての信徒が「良きイスラム教徒」になろうと心がけます。ですから、金持ちは、毎日自宅を開放して日没後の食事(これがそもそものブレイク・ファスト=ブレックファストの語源ですね)を、近所の貧しい人ばかりでなく、訪れるすべての人に振る舞うのです。これは、金持ちの「宗教的義務」です。イスラムではこれも五つの義務のうちの一つ「喜捨(ザカート)」として位置づけているからです。
逆に言うと、これは貧しい人にとっては「権利」でもあります。ですから、夕食にありつけた貧しい人は、振る舞ってくれた金持ちに感謝する必要はないのです。感謝するべきは、金持ちにこの義務を課した「アッラー」です。そして金持ちは、この喜捨をすることで、将来に来たるべき「最後の審判」の日にアッラーから「天国行き」を許されるのです。つまり、貧困者に対して金品を喜捨(贈与)することは、金持ちにしてみれば「天国行き」の対価として位置づけられます。そう、アッラーとの「交換」なのです。
贈与と交換。いろんなバージョンがありますね。
投稿情報: 16:34 カテゴリー: 開発と近代化について考える | 個別ページ | トラックバック (0)
| リブログ (0)
CSRという言葉。コーポレート・ソーシャル・リスポンシビリティーの略ですが、「企業の社会的責任(貢献)」と訳すことができます。
これも開発援助との関連で気になっている言葉の一つです。個人が善意で開発途上国の人々の生活の改善や困窮者の救済に何らかの貢献をしたいと思う気持ち、わかりますね。
一方、国がODAという形で途上国の開発を援助するには、納税者が納得するような理由付けが必要になります。そのときに使われるロジックには「人道的支援」「先進国としての責務」という「利他」と、「相互依存」「我が国企業の利益」という「利己」の両方があります。「利他」は「贈与」に結びつき、「利己」は「交換」という発想につながります。
また、個人と国家の中間レベルのアクターとしてNGOがあります。特に開発NGOであれば、「なぜ途上国の人々を支援するのか」という理由付けは明確で「そのための組織だから」で問題ありません。こうしたNGOのサポーターはそのためにお金や労力を提供するわけです。その背景には様々な宗教的・哲学的・思想的な理由付けがあるでしょうが、サポーター(スポンサー)はそもそもそれに同意するから寄付をしたり、ボランティア活動をしたりするのです。
さて中間レベルのアクターとして、最近「企業」の重要性が開発援助の文脈でも注目されるようになってきています。企業はもともと、利潤追求のための組織であり、開発援助は本来の業務ではありません。とはいえ、日本でも昔からよく聞かれる言葉に「企業の地域貢献」があって、企業自身も地域コミュニティーの一員として責任ある行動を取るべきだ、という考え方は広く受け入れられています。日本では「交通安全週間」に企業が通学路の横断歩道に交通整理の人を派遣したり、毎月決まった日に駅前の掃除をしたりという光景は昔から見られます。こうした活動は企業の本来業務(自動車を作ったり、チョコレートを作ったり)とは異なりますが、これをさして例えば株主が「利益に結びつかない無駄な活動をするな」などというクレームをするということはまずあり得ないでしょう。地元のお祭りに寄付をするのも広い意味では地元貢献でしょう。こうした地域コミュニティーに対する貢献は、目に見えすいしわかりやすいのですが、貢献の対象が地球大に広がって途上国の人々の生活に関連する活動をし始めると、「何のためにやるのか」という理由付けが必要になってきます。
昨日飲み会で、ある人が、企業のフィランソロピー(例えば音楽ホール作ったり、奨学金を出したり)とCSRを比べて「フィランソロピーは、企業的な利益を想定しないが、CSRは間接的にイメージアップなどで売り上げ増加を意図している」という定義を紹介してくれました。異論はあるでしょうが、これはわかりやすい定義の一つだと思います。
つまり、フィランソロピーは「贈与」、CSRは「交換」という解釈です。
「援助は贈与か交換か」。この問いにしばらく向き合ってみたいと思っています。
投稿情報: 12:57 カテゴリー: 開発と近代化について考える | 個別ページ | トラックバック (0)
| リブログ (0)
最近気になっているのは、日本のODAをめぐって「日本だって格差社会で貧しい人がいるのに、何でわざわざ途上国のことにくちばし突っ込んで、我々の税金を使うのか」という議論です。
これに対して「それは先進国日本の義務だから」という反論は、なかなか説得力がありません。何しろ国内にだって困っているホームレスがいるのですから。どうせ贈与なら、国内に贈与せよ、ということです。
別の反論の仕方は「途上国に援助することは、巡りめぐって日本の企業や日本の国益につながる」という説明の仕方です。この場合わかりやすいのは「日本の企業の受注や投資や輸出につながる」という「国益」論です。これは、一種の「援助とビジネスの交換」論ですね。
ただ、この「企業利益=国益」論は1980年代にさんざん週刊誌で叩かれた結果、「ひも付き援助はやめよう」ということになったのです。それが、20年経って「日本の企業の利益にならないと血税使う意味がない」という形で復活してきたというところがまた興味深いですね。
実は今日のお昼に、中国の援助研究者の方々とお話しする機会がありました。彼らは「西洋流の独善的な援助のやり方に全面的に賛成するわけにはいかない」「中国は途上国と対等な関係の『協力』を指向する」と主張しています。これは近年の中国の対アフリカ援助をめぐる議論の中で出てきた発言です。
最近中国は「新興ドナー」とも呼ばれていて、西側世界(日本も含まれますが)が「民主化」「人権」などを前提条件とした「条件付き(コンディショナリティー)」援助をしているのに対して、そんなややこしいこと言わずに気前よく「箱モノ・インフラもの」援助をしているのです。当然アフリカの政治家からは「中国の援助は良い」という評価が得られるわけです。
日本はかつて、こうした「箱モノ」「企業利益誘導」援助をしていて、欧米ドナーから批判されて、「アンタイド(ひもの付かない)」援助、「人道・民主化」援助にシフトしてきた経緯があります。
でも今、日本のODAは国内では「日本の国益に結びつかない」と批判され、途上国(例えばアフリカ)では、「いろいろうるさいこと言われて嬉しくない。中国の方が良い」と言われているのです。
日本のODAは、いったい何を目指すべきなのか、説得的な議論を作っていかなければならない時期に来ているのでしょう。
投稿情報: 16:29 カテゴリー: 開発と近代化について考える | 個別ページ | トラックバック (0)
| リブログ (0)
途上国の開発問題を社会学的に考えるときには、どうしても「近代化」について考えないわけにはいきません。そもそも社会学という学問自体が「近代化」とともに発生し、近代化とは何かを考える学問として生成してきたという事情もあるのですが、そうした出自を離れても、現在の途上国の人々が「何を目指して開発・発展を願っているのか」という問いを発するならば、その答えは「近代化」ということになるのではないか、と思うからです。
生物進化論のアナロジーで「社会進化論」を唱える人はたくさんいます。生物が単細胞から高等生物(その頂点としてのヒト)に進化したように、人類社会も「原始」→「中世」→「近代」と変化するに従って社会の仕組みが複雑化し(分業・分化が進み)、その結果社会全体の生産力や課題対応力が高まるのだと考え、これを「進化」と名付けるわけです。
20世紀中盤のアメリカ社会学の巨人タルコット・パーソンズも、こうした社会進化論的立場を取っていたようです。ある社会が様々な理由で「進化への圧力」を受けると(内部からこの圧力が発生することもあります)、まず社会内部の役割が「分化(分業)」し、それぞれが専門性を発揮することによって社会全体の「問題対処能力が高まる」と考えました。これはこれでいいのですが、分化にともなってこれまでの社会秩序が変化します。そこでこれを放置すると社会が分裂してしまいます。そこで社会は自己保全システム(ホメオスタシス)を働かせて、いったん分化した社会の諸要素を新たな組み合わせで「包摂」するようになり、これに伴って社会が新しい価値観を共有するようになることで、新たな秩序が成立しようやく社会が安定する。これがパーソンズの考える「社会進化」のメカニズムのようです。
これを途上国の発展・開発の問題に当てはめることができるのか、というのが目下のところ私の関心です。パーソンズは1960-70年代のアメリカを「もっとも進化した社会」と考えていたようで、キリスト教的な自由主義が社会に共有される「普遍的価値」となることが「進化」ととらえていたフシがあります。だとすると、それ以外の価値を持つ社会は「進化していない」社会なのか、あるいは「脇道にそれた」社会なのか。これをどう考えるのかが、問題です。これは今日のグローバリズムをめぐる議論にもつながるような気がします。
パーソンズが分析したのはある意味で「黄金時代のアメリカ」で、70年代以降アメリカでも「近代の病理」が噴出しているため、今ではパーソンズは「時代遅れ」と見なされています。しかし、社会の秩序がいかにして作り出されるのか、という関心に基づく「社会システム論」は今日の途上国の問題にも何からの示唆を持っているのではないかと思います。
※パーソンズの社会変化に関する入門書としては、松岡雅裕『パーソンズの社会進化論』恒星社厚生閣 1998があります。ちょっと読みにくいですが。
投稿情報: 19:50 カテゴリー: 開発と近代化について考える | 個別ページ | トラックバック (0)
| リブログ (0)
日本は世界で屈指の援助供与国ですが、援助の世界のロジックは依然として欧米の「開発学」に基づいて組み立てられています。日本は既に半世紀の開発援助の供与歴があるのですから、われわれ自身の経験に基づいた「日本の開発学」を作り上げていくことが可能ではないでしょうか。この作業に、一緒に携わっていきませんか。「実務と研究を結ぶ」作業は、時にカメレオンのような自己装飾と、コウモリのような身のこなしが求められますが、様々な知的刺激に満ちたフィールドですよ。
投稿情報: 15:44 カテゴリー: 開発と近代化について考える | 個別ページ | トラックバック (0)
| リブログ (0)