この半月ばかりのイエメンを巡る展開は、一言で言うと「いやな感じ」です。それは、西側メディアやそれを鵜呑みにした日本の一部メディアの主張するような、「サレハがサウジから帰国して、居座りはじめたから問題解決が遠のいた」という意味ではありません。
サレハ大統領は、西側メディアの期待を裏切って革命49周年(9月26日革命記念日)の直前に治療療養中であったサウジから帰国しました。サレハの帰国は多くの解説者にとっては失望とともに受け止められましたが、私はサレハが瀕死の重傷を負った6月のモスク爆破事件以来「サレハは一度サナアに帰るべき」と申し上げてきました。それが最も望ましいシナリオだと思っていたからです。
なぜなら、どれほど民衆の支持が失われつつあるとはいえ、未だに「誰の仕業だったのか」が不問に付されているようないわばテロ行為で、曲がりなりにも選挙で選ばれた大統領が政治舞台から退場するなどとということは、尋常ではありません。そんな退場の仕方では次の政権の正統性も担保されません。それ故イエメン政治の平和的な推移のためにはサレハ自身が大統領として「辞任する」と宣言する手続きが必要だと私は思います。
実際、帰国後のサレハは10月6日に「数日以内に辞任する」と演説しましたが、ほとんどのメディアは「どうせまた先延ばしするためのリップサービスに過ぎない」という反サレハ派のコメントと合わせて報道しています。そのコメントの中には、10月7日にイエメン人で初めてノーベル賞(平和賞)を受賞したタワックル・カルマン女史も含まれています。そして、彼女を説明するためにメディアの用いる形容詞は「民主化運動家」という言葉です。
また、9月30日にアメリカの無人攻撃機がイエメンの内陸部で「アラビア半島のアルカーイダ」の指導者の一人、アンワル・アウラキ氏の殺害に成功しました。これで、アメリカ人は日々の「テロの脅威」におびえる度合いを軽減することが出来ると胸をなで下ろしているようです。この意味でこの作戦は大成功です。こうした無人機によるイエメン領内侵攻は、これが初めてではありません。9.11以降何度か行われていて、その都度巻き添えになって標的以外の人が死亡する例も少なくありません。しかし、こうした事件は西側ではほとんど報道されません。それはサレハ政権がこうしたアメリカの「侵入」を黙認する代わりに、アメリカもサレハに軍事援助を提供するという「暗黙の合意」があったからです。しかし、もしサレハが退陣したら、この関係はどうなるのでしょうか。アメリカはさらに好き放題に標的を仕留めていくのでしょうか。
私は、サレハ自身リップサービスではなく、「自分が辞任することが最も望ましいシナリオである」ということは十分に認識していると思います。こう言うと、サレハこれまでに何度もGCC諸国の調停案を妥結寸前で反故にしてきたではないか、本心は政権執着ではないか、という反論があるでしょう。しかし私はそうは思いません。イエメンの政治・社会はこれまで一度たりとも「独裁」を許すような環境であったことはないのです。それは、サレハ自身が最もよく知っています。サレハが独裁政権であるというのは西側メディアのラベリングに過ぎません。軍事政権ではあります。また大統領にすべての権限が集中しています。政治犯の扱いも問題があります。しかしそれは直ちに、サダム・フセインのような、あるいはカダフィのような独裁とイコールではないのです。
一頃はサレハも息子アハマドに禅譲する気になっていたと思いますが、アハマドにサレハのこれまでやってきた「バランス政治=蛇の頭の上で踊ること」が出来ないことは明らかです。かといって、父でさえなしえなかった「独裁政治」を「アラブの春」後のイエメンで行うことは、アハマドがどれほどの権力を握ったとしても不可能です。
だとすれば、今外部者が出来ることはサレハの辞任発言を「どうせ嘘」と切り捨てることではなく、辞任が実現するような環境を整えることではないでしょうか。私には、国内でさほどの知名度も影響力もない「西欧のお気に入り」活動家にノーベル賞を与えることでサレハに圧力を加えたり、国軍の戦闘能力の崩落を良いことに勝手気ままに越境攻撃を行って「気に入らないイエメン人」の排除をすることは、そうした環境を整えることとは逆の方向の営為だと思います。
「このままではイエメンは破綻国家になる」という予言をする人々が、「そうならないために」という口実で反政府勢力にえこひいき的な支援を与えたり、「欧米にとっての」テロ勢力をイエメン国内の事情を飛び越して制圧することこそが、本当に「破綻国家」に追いやることになるのです。その誰も望まないシナリオがこのままでは動き出してしまいそうです。これが、いやな感じ、なのです。私が今、望みを託しているのは、きちんとした中東理解を持った日本の中東担当ジャーナリストの皆さんです。がんばれ、日本のジャーナリスト。
【2011/10/15 佐藤寛】
漱石がロンドン留学時に、どのくらい「人種差別」の不愉快を感じたかはわかりません。しかし1900年にイギリスに暮らす日本人はまだまだ少なく、大方のイギリス人にとって東洋の外れから来た日本人は「英国植民地からの留学生」と大差ない扱いであったことは容易に想像できます。もっとも、英領植民地からの留学生はイギリスの国費で賄われるのに対して日本人は自らのお金をはたいてやって来ている、という違いはありますが。
しかしながら、漱石の留学時代にはすでに「東洋人(ヨーロッパから見た場合の極東人)」を「黄色人種」であるが故に差別、敵視する「黃禍論(yellow peril)」が大陸ヨーロッパには発生していました。これは、黄色人種の台頭は白色人種にとっての災禍となるであろうという人種差別的感情論であり、日本が国際舞台に登場した日清戦争(1994年)に際して、ドイツ皇帝ウィルヘルム二世が唱え始めたと言われています。同時期に、アメリカ西海岸では日本や中国からの移民流入によってヨーロッパからの白人系移民の雇用が奪われるという危機感も高まっていました。
そして、当時の黃禍論者たちの論調を見ると、今日のヨーロッパにおけるイスラム教徒への警戒心、敵対心とうり二つであることに気づきます。そして、こうしたイスラム教徒に対する恐怖感を、黃禍論を忘れた今日の日本人が西洋メディアに影響されて西洋人と共有しているとすれば、それは二重に情けない事態ですね。
ところで、アメリカにいるアフリカ系の人々(黒人)については当時すでにアメリカの奴隷禁止法が成立(1865年、明治維新の直前です)していたとはいえ、まだまだ世界的に黒人に対する差別的な取り扱いは常識でした(唯一の黒人独立国家はエチオピアで、それ以外はすべて西欧の植民地でした)。アメリカで公民権運動が盛り上がるのはそれから100年後の1960年代です、日本人がアフリカ系アメリカ人の差別問題に多少関心を持ち始めたのもこの頃でしょう。20世紀初頭の黃禍論の時代も、日本人は自らの人種差別をどうはねのけるかに一生懸命で、同様に差別されている人々との連帯という意識はほとんどなかったのだと思います。
南アフリカのアパルトヘイト政策のもとで日本人が「名誉白人」の扱いを受けるようになったのは1961年からですが、これも日本の経済力が認められた結果として日本国内ではおおむね喜んで受け入れられていたようです。こうした「差別する側」に回ることによる特権獲得は、差別の追認と固定化に寄与してしまうことは、あまり考慮されていなかったのですね。西洋中心の価値観の変更を目指すのではなく、西洋人の作り上げた価値観の中で、自らの存在を認めてもらうために「西洋に追いつく」ことを目指してきた日本人の明治以来の性癖がいかに根強いかを示すエピソードではあります。
ところで、今日のロンドンにあって漱石の時代になかったものの一つに「ジャスグラブ」があります。ジャズはちょうど漱石が日本で小説を発表し始めた20世紀初め頃に、アメリカ南部のニューオリンズで生まれたものだからです。アフリカ系の人々の民族音楽と、西洋音楽の楽器とが組み合わされた新たなジャンルの音楽ですが、その意味でこれは黒人と白人の融合芸術といえます。日本にジャズが紹介されたのは大正時代に入ってから当時の貿易港であった横浜、神戸あたりからだったので、漱石はジャズを聴いたことはなかったかもしれませんね。
私はイギリス滞在の最後の週に、ロンドンのソーホーにある「ロニー・スコッツ」というジャズクラブに行きました。その日は日本人である上原ひろみさんのステージがありました。上原さんは新進気鋭のジャズ・ピアニストで拠点はアメリカですが、もともと日本に生まれ育ち、ヤマハの音楽教室育ちだということです。ヤマハの音楽教室は、高度経済成長期の日本で、オルガンとピアノを武器に日本の中流家庭に西洋音楽を普及したユニークなマーケティング手法ですが、そこから数多くの音楽家を発見、育成してきたことは、評価されるべきだと思います。
さて、ロニースコッツでのステージはドラムとベースのおじさん二人を率いて、上原さんのピアノが冒頭からフルスイングしていました。確かに天才。とても楽しいステージでした。もともと白人と黒人の融合芸術であるジャズに、日本人の若い女性が活躍する・・漱石はこれをどう見るでしょうか。
もちろん、音楽に国境はなく、ジャズもすでにグローバルな音楽なのだから、そこで活躍するミュージシャンがどこの国の人かなどと識別すること自体がナンセンスなのかもしれません。この段階に至れば、漱石の「内発的な開化」と「外発的な開化」の区別も意味を失うでしょう。しかし、芸術でさえまだ無国籍なものはほとんどありません。芸術だからこそ文化が色濃く刻印されるのは、一面で当然なのかもしれません。
ところで、世界の一流ジャズ・ミュージシャンが演奏するロニー・スコッツのステージに置いてあるピアノはヤマハ製です。この事実を知ったら、漱石は満足げに髭をなでるのではないかと思います。【2011/8/28】
今朝(2011年8月22日)のニュースで、リビアのカダフィ大佐の次男が反カダフィ勢力に捕まって、いよいよカダフィ体制も末期だというような観測が伝えられていました。3月後半に始まった欧米による反カダフィ派支援の軍事行動がようやく結実しそうです。しかし、この半年近くにわたって繰り広げられた干渉行為は、決して正気の沙汰ではないと思います。欧米の人々がこれを冷静に認めるようになるにはしばらく時間がかかるでしょうけれど。
さて、私がまだロンドンにいた先月(2011年7月)、セントジェームズ広場に面した王立国際問題研究所(通称チャタム・ハウス)で「オサマビンラーデン後の世界~9.11以後の十年」と題したセミナーがありました。その場を支配している論調を聞いていると、かつてのアデンの宗主国であったイギリスでさえも、現在中東で起こっていることを、現地の固有の事情などより、自国の都合で解釈するバイアスがきわめて強いことが印象的でした。
セミナーは二部構成でそれぞれ75分ずつ。司会が提示した問いに対して、三人のスピーカーがそれぞれに話をし、そのあと30分ほど質疑の時間を取るというスタイルです。チャタムハウスの通常のセミナーは60分ということが多いので、いつもよりも質疑の時間が多かったのです。
興味深い問いは「オサマビンラーデン(UBRと略している人がいました)が死んでテロとの戦争は終わったのか」「イギリスの治安状況は改善するのか」などで、もちろん専門家たちはおおむね「YesでもありNoでもある」というような答えをするのですが、問う側も答える側も「中東地域が安定するかどうか」はどうでもよくて、「イギリスにおけるテロの脅威は低減するのか」にもっぱら関心があるということがよくわかります。このロジックだと、イギリスに住む人々に対する脅威が低減するなら、中東で事態が混乱してもかまわない、ということにもなりかねません。その地に住んでいる人の幸せより、まずは自分たちの身の安全。
コーヒー・ブレークの時にクッキーのそばに置かれていた政府発行のパンフレットは、私にはさらに興味深いものでした。タイトルは「Conest:The UK`s strategy for COuntering Terrorism」発行は July 2011。できたてのほやほやです。
その中にはこんなことが書いてあります。「昨年一年で1万人がテロの犠牲になっています。」「アルカーイダの指導部は(ビンラーデンの死を経て)9.11事件以来最も弱体化しています。」「アルカーイダは「アラブの春(中東における民主化デモ)」に何の影響力も及ぼしていません。」つまり、テロの脅威を国民に啓蒙しつつ、イギリスはアルカーイダの封じ込めに成功しつつある、というメッセージです。
イギリスに住んでいると、西欧キリスト教徒のイスラム教に対する本能的な恐怖感を感じることがしばしばあり、アルカーイダに対する嫌悪感の大半はこうした感情に根ざしているように思います。そして西欧人が「アラブの春」における民主化デモ勢力、とりわけリビアの反カダフィ勢力を判官贔屓ともいえるほどに支援したがる(支援のために空爆までしてしまう)理由の一つが、こうした民主化勢力はアルカーイダの対抗勢力だと考えているからなのでしょう。
パンフレットにはアルカーイダ対策の全体的な楽観が表明されつつも、「しかしアルカーイダの系譜の組織が、特にイエメンとソマリアで過去二年で現れてきました」との言及があります。これが、現在イギリスにおけるイエメン注視の根拠となっているわけです。決してイエメン人の置かれている状況に対する同情からではありません。
また、パンフレットはHomegrown terrorist、すなわちイギリスに生まれ育ちながらもイスラム過激派の思想に共鳴する人々に対する警戒を呼びかけています。その重要な「洗脳」拠点としてパキスタンの脅威が指摘されており、それゆえにイギリスの外交はパキスタンの安定に注目するのです。
ところで、このパンフレット、後半は北アイルランドのIRAの話が続くのです。つまり、どちらも純然たるイギリスの国内問題なのです。おそらくアメリカの市民にとっても同様でしょう。6月にワシントンに行ったときにも、地元の人々は「今日のワシントンDCのテロ警戒警報は、オレンジレベル(要注意)」というようなことをお天気の話のようにしていました。
英米が、こうした「国内治安対策」の延長上で軍事作戦を展開したり、中東・アラブの政策を考えるのは仕方がないと思います。しかし、日本がそうした政策に同調しなければならない理由はほとんどありません。ならば、イエメンの庶民の生活の安定の寄与する、長期的な視野に立った適切な対策を提案できるのは英米よりも日本ではないでしょうか。現実的にはそれが難しいことは重々承知していますが、それでも日本外交のイニシアチブを期待したいところです。がんばれ外務省の中東関係者!
【2011/8/22 佐藤寛】
ロンドンから東京に戻ってすでに一ヶ月が経ってしまいました。ロンドンのさわやかな夏から東京の酷暑に切り替わって、もはやばて気味ですが、そろそろブログも復活したいと思います。
今年(2011年)は、東日本大震災の後遺症とも言える節電モードのために東京ではことさらに「暑い夏」を体験しています。しかし暑かろうが涼しかろうが、日本の夏はいつも通り広島(8月6日)、長崎(8月9日)、終戦記念日(8月15日)と第二次世界大戦関連の記念行事が続きます。お盆とセットになった敗戦儀礼と言っても良いかもしれません。
こうした記念行事は「大東亜戦争」の最終局面である本土決戦の悲劇と強く結びついているので、アメリカとの戦いがクローズアップされますし、戦後の占領も実体的にはアメリカ軍による占領でした。しかし第二次世界大戦の主戦場の一つである東南アジア戦線では日本はイギリスとも戦っているのです。「鬼畜米英」というスローガンはイギリスも主敵であったことを示しています。
さて、漱石の時代の日英関係と現代の日英関係との最大の違いは、戦争に伴う互いに対する憎しみ感情の発生と抑制、というプロセスを経験しているかどうかではないかと思うことがあります。もちろん、明治維新前夜の1864年には薩英戦争や下関戦争がありましたが、これは大人(英仏軍など)と子供(薩摩藩、長州藩)のけんかですからイギリス人にとって当時の日本は憎悪の対象にもなりません。
その後、文明開化と富国強兵につとめた日本は日清戦争に勝利し(1894年)、その結果漱石のロンドン滞在中(1900-1902年)には日英同盟が締結されています。そして漱石の帰国後の日露戦争で勝利(1905年)して欧米に衝撃を与えますが、日本海海戦のヒーロー東郷平八郎元帥は明治4年(1871年)から同11年(1878年)まで、イギリスのポーツマスに海軍士官として官費留学した人でした。今で言えば、途上国からの研修生という位置づけだったのでしょう。このため日本の勝利は「イギリスで訓練を受けたことの成果」であるという自負もあって、イギリスは日本の成長を余裕を持って眺めていました。
ヨーロッパが主戦場であった第一次世界大戦では日英は交戦していませんが、第二次世界大戦のアジア戦線で両国は初めて直接対峙することになります。特に泰緬鉄道(タイとミャンマー間の補給路)を巡っての攻防戦は熾烈を極めたのです。現在では日英両国にこの当時の経験を直接語る人はほとんど残っていませんが、第二次世界大戦後しばらくは、双方に「旧敵意識」は残っていたようです。
旧敵意識は、具体的にはこんなところに現れます。ミステリーの女王アガサ・クリスティーの『ねずみとり(Mouse Trap)』はロンドンで驚異的な59年にわたるロングランを続けている芝居です。この脚本が書かれ、初演された1952年は終戦後7年しかたっていない時です。
第2幕。殺人事件の調査のために民宿にやってきたトロッター刑事は、若い宿泊客を異常性格者の犯人ではないかと疑いますが、宿の女主人モーリーは、別の年配の客も犯人の可能性があると主張する場面:
モーリー「もし子どもが異常性格者なら、父親もそうかもしれませんわ」
トロッター刑事「可能性としてはね」
モーリー「例えば日本軍の捕虜にでもなってひどい苦労をして帰って来たとしたら・・」
この台詞は、日本人もしばしば見に来る現在のロンドンでの上演ではカットされているようですが、初演時には多くの聴衆にとって、「異常性格になる」きっかけとしてはとても説得的に響いたに違いありません。日本軍の捕虜になるというのは筆舌に尽くしがたい過酷な経験だ、というのが常識だったからです。映画『戦場にかける橋(英米合作・1957年)』でも、日本軍による英米捕虜の過酷な扱いが強調されており、日本軍の捕虜になった英軍兵士の扱いが虐待的であるという主張は、イギリス国民一般の「非道な日本人」イメージと憎悪の形成に寄与したに違いありません。
他方日本兵も捕虜になり、ひどい仕打ちを受けました。しかし敗戦とそれに続く極東裁判によって、戦争を開始した責任のすべてを押しつけられた日本では、ソ連軍によるシベリア抑留以外、戦時の捕虜の扱いについて旧敵を非難する論調はほとんど禁句でした。
そんな中で自身が戦前から西洋史学者であった会田雄次は英軍の捕虜となった(戦闘中ではなく、終戦による捕虜なので位置づけが若干異なりますが)ビルマでの二年間の捕虜経験に基づいて『アーロン収容所』(1962年)を書きました。その前書きで彼は「私は英軍、さらには英国というものに対する燃えるような激しい反感と憎悪を抱いて帰ってきた」と述べているのです。
対等な関係の戦闘中よりも、圧倒的な非対称関係である捕虜状態でこそ、こうした憎悪が拡大されるのは当然なのかもしれません。ただ1960年代の日本では、冷戦構造下で西側陣営に帰順する必要性もあって西欧に対する賛美が主流であったために、『アーロン収容所』が日本人の英国観に大きなダメージを与えなることはなかったのです。 他方、イギリス人の日本軍に対する否定的イメージも、高度経済成長期を経て日本製品・日本文化に対する好感度が蓄積されていくにつれて、背景に退いていったようです。
こうして今日、表面的には相互に友好的な日英関係が成立しているのですが、それがお互いに相手を憎悪する経験を経た上のものであるために、「戦争経験なし」の関係よりは一段深い相互理解に達していると言えるかもしれません。
漱石が英国留学時に感じた「不愉快」の背景には、圧倒的な力の差(その原体験としての薩英戦争や下関戦争での日本側の惨めな敗北)があり、しかもイギリスの一般国民はそんなことがあったことさえ知らないので憎しみさえ抱かないという「日本の不在」、「日本の軽さ」があったのだと思います。
このブログのテーマである「もし今漱石がロンドンにいたら」どう考えるか、という点に引きつければ20世紀初頭の「英国における日本の不在」に比べると、憎悪をも含めて「無視し得ない存在としての日本」が認識されている今なら、漱石はノイローゼにならなかったのではないかと思うのです。
【2011/8/16】
漱石の留学当時は蝶々夫人のような悲劇も多かったかもしれませんが、それから100年、すでに多くの日本人と欧米人のカップルが誕生しています。イギリスにもそうしたカップルがたくさんいて、夫が日本人のパターンも妻が日本人のパターンもあります。ただ、妻が日本人の場合は基本的にイギリスに住居を構えて住み続けることが多いようです。そのことを私は東日本震災後に認識しました。
3月11日の震災直後から、ロンドンでも日本人学生が中心になって募金活動を開始し、津波の被害の大きさが報道されるにつれて、日本関係者が様々なチャリティーイベントを行って被害者に対する支援金を集める動きが活性化し、イギリス人もとても親身に心配してくれて多くの義捐金も集まったようです。
3月22日にはロンドン大学(University College of London)でチャリティー緊急集会があり、東北大学の人たちが震災の被害を報告するとともに、研究上の協力を訴えていました。その集会の冒頭に東北大学の先生が日英の交流史をおさらいしたのですが、幕末の長州ファイブ(1863年-伊藤博文,井上馨,遠藤謹助、山尾庸三、井上勝)も、陸奥宗光(1884-1886)、夏目漱石(1900-02)もみんなロンドン大学で勉強しました、というイントロだったのが興味深かったです。
さて、震災から一ヶ月ほどたった4月10日にロンドンの南、海岸近くのチチェスターという小さな町で、チャリティー映画祭が開催されました。この町には公営映画館があって定期的に名画を上映しているのですが、この日は村上春樹原作の『ノルウェーの森』を上映し、入場料(7.5ポンド=1000円程度)は義援金に回り、それ以外に武道の演舞もあるというので出かけてみました。会場に着くと浴衣姿の女性たちが手作りのり弁当、ビール(アサヒスーパードライ)、梅酒(チョーヤ)、日本茶なども売っていてこれらも全額支援になるとのこと。ビールと梅酒はメーカーからの寄付なのでしょう。もちろん募金箱もあって募金をすると和紙に「ありがとう」と書いたしおりをくれました。もちろん、彼女らの手作りでしょう。
ロンドンやブライトンにはいくつも大学があり、若い日本人女性も数多く留学していますが、話を聞くと今日の浴衣姿の女性たち12人は、全員イギリス人と結婚して地元チチェスターに住んでいる人とその娘たちでした。私が日本人とみて隣町に住んでいるという日本人男性が声をかけてくれました。「ここで日本人男性を見るのは珍しいので」と。一瞬、言われていることの意味がわかりませんでした。女性が10人以上いるなら、同じくらい日本人男性もいるのではないかと考えたからです。
でも、そうではないのですね。田舎町に日本人男性がいることはまずないのです。演舞も合気道はアフリカ系の師範とイギリス人の素人さん、剣道はイギリス人の師範と日本人の顔をした少年の型。この少年は日本語はあまり話せないようでした。これが、田舎町で「日本的なもの」のすべてです。漱石は、これをどう思うでしょうか。
1900年、 ロンドンでさえ普通の人には日本など意識の外で、イギリス人の日常生活に日本は影も形もありませんでした。2011年のチチェスター。ローマ時代からのカテドラルのあるこの古い町でもスシは売られているし、若者はマンガを知っているし、日産やトヨタの車は普通に走っています。ここのコミュニティーホールには「道場」さえあるのです。もちろんアサヒビール(イギリスのブルワリーで委託生産しているのです)が飲めるパブもあります。本物の日本人も10人くらい住んでいて、日本で地震があれば、みんなチャリティーイベントに集まってきます。日常の中に日本は織り込まれているのです。
本件、漱石とチチェスターのパブでスーパードライを飲みながら意見交換してみたいですね。
【2011/7/12】
アデンはインド洋の西の端に位置し、アラビア半島と「アフリカの角」ソマリアに挟まれたアデン湾に面しています。アラビア半島とアフリカ大陸の間の紅海の入り口に当たり、スエズ運河を越えて地中海に抜けるためには必ず通り抜けなければならない航路上にあります。
岩山に囲まれた天然の良港で、インド洋を航行する船舶にとっては重要な停泊地であり、15世紀には明の鄭和が寄航している記録もあるそうです。蒸気船の時代になってからは石炭補給地(のちに給油地)としてイギリスが活用し、1839年にイギリスが軍事占領した当初はインド提督の管轄下で(インド経営のためのイギリス船舶を海賊から守ることがもともとの目的だったため)、インドからの移民も多く現在でもアデンにはインド系の顔立ちの人が目立ちます。
イギリス占領下で、アデンは世界第二の寄港数を誇る近代的自由港としてその名を轟かせ、幕末から明治時代にかけての日本からの欧州派遣留学生の多くもこの港に寄港しています。スエズ運河完成(1869年)後はイギリスのアジア航路の要衝となり、イギリス人ばかりでなく、アフリカに進出しようとするヨーロッパ人のたまり場となっていたようです。詩人ランボーは19世紀末のフランス商社勤めの頃、この港に住んでいました。フランスのコミュニスト思想家、ポール・ニザンがパリの高等師範学校在学中にパリを逃げ出して一年間この町に住んだのは1930年。後にまとめられたエッセイ『アデン・アラビア』に彼は「アデンにヨーロッパの圧縮された姿」を見たと書いています。
1937年に「アデン植民地」としてイギリス本国からの直接支配になり、補給機能充実のために製油所が建設された1950年代がこの港のピークだったようです。当時は港の税関・入国管理事務所を抜けたところに「免税店街」があり、旅客船が着くたびに船からはき出された客でごった返したそうです。
その後旅客は航空機の時代になっていき、また1960年代以降は中東・アフリカにおける英仏の影響力が低下してアデンは顧みられなくなっていきますし、1970年代になるとアラビア半島の産油国が「オイルパワー」を用いて急速な近代化を開始し、アデンは「アラビア半島一の近代都市」から「田舎の港町」に転落していきました。《タワーヒー》と呼ばれるこの税関前の海岸通りには、今でも昔のままの石造りの建物がありますが、いずれも鎧戸を下ろし、さびれ果てていて当時の面影はありません。アデンの没落はある意味では「時代の流れ」ですが、他方政治に翻弄された「人災」の部分も少なくありません。
まず第一の「失敗」はイギリスの植民地統治の後遺症です。イギリスは1830年代からアデン港の保持に全力を注ぎましたが、その後背地である「アデン保護領」「ハドラマウト保護領」については、資源の乏しい乾燥地、山岳地であり、植民地化するメリットを感じていませんでした。このため、これらの地域は現地の首長(Sahikh)やスルタン(Sultan)が治める「土侯国」「スルタン国」の権限をある程度認め、補助金を提供しながら間接統治をしていました。さて1960年代に末にイギリスが植民地を手放すときには、なるべく親英的な穏健派に権力を譲ろうといろいろと工作しました。
アデンはイギリス直轄領で、教育などの機能も充実していたし、港湾関係の雇用もあるので北イエメンから山を下りて多くの労働者が流入し、アデンに定着する人も出てくると、子弟を出身地から呼び寄せ、学校教育を受けさせます。このため、アデンには他の南イエメンとのつながりの薄い北イエメン出身の労働者が多くなりました。このほかにイギリスに連れてこられたインドからの移民も大きなコミュニティーとなっています。そのほか対岸のソマリアからも流入してきます。この意味でアデンは国際都市だったのです。
湾を挟んで港の対岸《リトル・アデン》に建設されたアデン製油所はブリテッシュ・ペトロリアムの経営する近代的な施設で、多くの労働者を雇用し、労働者のためのラジオ局、映画館などの施設も充実していました。またもともとの港湾作業に従事する労働者も数多くいます。
1956年のスエズ危機で英仏を向こうに回して戦ったエジプトのナセル大統領はアラブ世界全体の英雄となり、彼の唱える「アラブ民族主義」はイギリス植民地下にあるアデンの人々、保護領となっている地域の若者、さらにはイマームの圧政に苦しむ北イエメンのエリートなどを刺激します。こうしてアデンやアデン保護領では労働組合、アデンで教育を受けた部族出身者などを中心に急速に「反英独立闘争」が活発化します。
イギリスは当初これを軍事的に抑圧しますが、南イエメン独立の方針が発表されると、過激化するアデンの労働者よりもアデン保護領の保守的な首長たちに政権を委譲して、独立後の権益を確保することをめざし、1959年に六つの首長国からなる「南アラビア首長国連邦」を結成します(その後1962年に4つが加わって「南アラビア連邦」になり。1965年までには「上ヤーフェア」首長国以外のすべての保護領の首長国が加盟しました)。この穏健派首長の抱き込みによる親英国の確保、実はアラビア半島の対岸でも同じ試みが行われていたのです。それが、現在のアラブ首長国連邦(UAE)です。UAEは今でも七つの首長国の連邦で、ドバイ、アブダビなどは中東でも指折りの近代都市になっていますね。
イギリスはこうした保守派首長国によってアデンの過激化する政治勢力を中和しようとしたのですが、ペルシャ湾岸のUAEのようには行きませんでした。それは、1962年に北隣のイエメンで共和国革命が起こり、南部イエメンの人々にも「革命熱」が広がったこと、さらに紅海を挟んだ向かいにはナセルのエジプトが控えており、ナセル大統領からの物心両面の支援が「アラブ民族主義」勢力に届きやすかったからです。
アデンで彼らは占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)を組織して独立闘争を継続します。今なら、イギリスやアメリカはナセルを「テロリスト」と呼ぶかもしれませんね。イギリスは1965年には「南アラビア連邦」の自治権を停止して直接統治に乗り出ますが、思い通りにはいかず妥協してFLOSYやその他のアデンの政治勢力、と南アラビアの首長国と独立方法について交渉を始めます。
ところが、時は冷戦時代で、アフリカに続々登場した社会主義政権同様、アデンにはFLOSYよりさらに急進的な社会主義勢力NLFが台頭、東側勢力からの支援を受けて1967年後半に首長国を次々と軍事的に攻略、同年10月にはアデンも支配下に置くまでなりました。イギリスはもはやアデンのコントロールをあきらめ、11月末にNLFと独立協定を結んであっけなく撤退しています。新生「南イエメン人民共和国」はアデン、旧アデン保護領、旧ハドラマうと保護領を統合して誕生します(1967年11月30日)。
この時点では、アデン以外の地域は決して社会主義に賛成していたわけではありません(南アラビア連邦の一部の首長たちはイギリスやサウジアラビアに亡命しました)が、たまたまアデンを握っていたNLFがイギリスから政権を移譲されたことが、これ以降長く続くアデンの凋落の第一歩となるのです。この意味で、イギリスの無責任な権力放棄の罪は小さくありません。 【佐藤寛 2011/7/12】
2011年7月、サセックス大学とブライトン大学の最寄り駅であるファルマーの駅前に新たなサッカー場が完成しました。このグランドを本拠地にするのは地元ブライトン&ホーブ市のThe Seagullsです。
もともとBrightonとHoveは別々の町でしたが、ブライトンの拡張に伴ってホーブを取り込む形で一つの市になりました。ブライトン・ホーブ市のロゴはRoyal Pavilion のシルエットです。このパビリオンは「芸術の庇護者」とも言われるジョージ四世が、皇太子であった1787年に建設を開始し、父(ジョージ三世)の精神病で摂政皇太子(Prince Regent)となった時代(1811年~1820年)を経て、王位に就いた後ようやく1823年に完成しています。
この摂政皇太子が好んだ装飾過多の建築様式をRegency styleと言いますが、ブライトンのパビリオンもかなり手の込んだインド様式のドームとミナレット(尖塔)で飾り立てられており、東洋趣味あふれる建物です。ロンドンのリージェントストリートとリージェンツ(Regent's)公園もやはりこのジョージ四世にちなんでいますが、ブライトンにも海に面したリージェント広場があります。かつてはその海岸に1866年建設の西桟橋(West Pier)があり、劇場などの娯楽施設を備えて1920年代~30年代はブライトン観光の黄金時代を謳歌したそうです。その後老朽化に伴って1975年に閉鎖され、さらに2003年の火事で丸焼けになって鉄骨だけが残っています。ところが、さすが芸術家の町ブライトン、これはこれでモニュメントとして楽しまれています。
ところでサッカーのThe Seagullsは海辺の町らしい愛称ですが、チームの正式名称は Albionです。アルビオンとは詩などで用いられるブリテン島の古名で、その意味は「白い島」。その昔ローマ人がやってきて上陸しようとしたとき、イングランド南部の石灰質(Chalk)の岸が白いことに印象づけられての命名でしょう。イングランド南部では、丘陵地帯(Downs)が突然途切れて海になるところが多いので、海岸は絶壁となり、石灰質なので真っ白な壁のように見えるのです。
英仏海峡のイギリス側ドーバーも白い絶壁(White Cliff)で有名ですが、ブライトンの少し東にあるセブンシスターズ(Seven Sisters)も絶景です。海から屏風のようにそそり立った白い崖が七人の姉妹が並んで立っているように見えるところからこの名がついていますが、青い海、白い崖、崖の上の緑の草地、青い空と白い雲のコントラストはかなりの迫力があります。
もっとも、ブライトンの海岸は絶壁ではなく玉砂利の浜辺で(幅はせいぜい100メートルくらいですが、東西に数キロ続いています)、だからこそ海岸保養地として発達したのですが、町の中心部は海から少し上がった丘に展開しています。駅も丘側にあるので列車を降りて海岸に向かうには、だらだらの坂道を下ることになります。
しばらく歩くと 建物の間から海が見えて来るのですが、初めのうち水平線(Horizon)は視線よりもかなり高いところに見えます。坂道なので当然なのでしょうが、私にとってはこの目の高さより高い水平線はいつも小さな驚きを与えてくれます。「水平線の彼方に(Over the Horizon)」というと、遙か彼方にこぎ出していくイメージですが、目の高さより高い水平線の場合は、高く飛び上がって越えることが出来るのではないかと、これを見るたびにちょっと飛び上がってみたくなります。
さて、このシリーズ【ブライトン特急】は目標の50回を達成し、私も今週末には日本に帰国することになりましたので、これで最終回とさせて頂きます。毎日お読み頂いた皆さん、ありがとうございました。皆さんと日本でお目にかかることを楽しみにしています。
【2011/7/11】
この国のカード・ワールド化はますます加速しているように思います。すべてのショッピング、チケット予約、公共料金支払いなどにおいて、カードでの決済が強く推奨されているのです。自動販売機などではcard onlyというものも少なくありません。
それも、日本ではクレジットカードが主流ですが、こちらは銀行口座直接決済カード(Debit Card)が完全に主流です。日本ではカード会社への手数料は売り手が負担しますが、こちらでは買い手が負担させられるので、クレドット・カード決済では割高になりますが、デビット・カードなら手数料はかかりません。デパート、スーパーでの支払いはもちろん、鉄道のチケット、地下鉄のチケット、ロンドン貸し自転車の決済まで、何でもデビット・カードがあれば済んでしまいます。
ここまでカード・ワールドが増殖しているのは、現在のイギリスの主要産業が「金融業」であり、自分たちを中心においた金融システムの策定を戦略的に狙っているからでしょう。常にこの国はその時々の自分たちの比較優位を最大限活用して「世界を支配すること」を視野に入れています。
ところで、デビット・カードを作るためにはイギリスの銀行で口座を作ることが前提になっています(日本で作ったデビッド・カードも使えますが引き落としの時に為替計算が必要になり、面倒です)。逆に言えば、この国では銀行口座がないと普通の社会生活を送れません。しかし、ここで銀行口座を作るにはイギリスの住所が必要です。そして家を借りるためには銀行口座が必要だったりします。
銀行口座を作るためには「住所を証明できるもの」の提示を求められます。日本のような住民票はないので、住居確認は通常「当人の名前で届いた公共機関からの郵便物」で行うのですが、赴任当初は、まだ家が決まっていないのでそんなものはありません。家が定まるまではお手上げです。私は日本から持ってきた手持ちの現金で食いつなぐことは出来ましたが、途上国から親戚を頼ってきたような人は、このカード・ワールドに参入することがそもそも困難なのです。
カード・ワールドの普及に伴い、支払い時間短縮のためにカードの真偽を確かめる方法も簡略化されていきます。日本ではレジでカードと同じサインをしますが、こちらでは四桁の暗証番号(PIN: Personal Identification Number)を打ち込むだけです。レストランでもテーブルでの支払いが一般的ですから、カードで払う時にはウェイターが無線端末を持ってきます。ウェイターが勘定書の金額を打ち込み、客はinsert your cardの指示に従って機械にカードを差し込み、enter your PINの指示に従って打ち込み、remove your cardで引き抜くと、引き落とし計算書が打ち出されてくるという流れです。
この方法ではカードを盗まれ、暗証番号を知られてしまったら、いくらでも使われてしまいます。実際、カード盗難に伴う詐欺(fraud)の被害は甚大です。このためカード会社もカードの使用状況をモニターしていて、少しでも不審な動きがあるとカードを無効にしてしまいます。私は、自分自身で使っていたにもかかわらず、1日にあまりに多くのトランスアクションがあるという理由で二度ほど止められたことがあり、現金を持っていなければ立ち往生するところでした。
このPIN入力による方法でも支払い口(till)での所要時間は現金支払いに比べると時間はかかりますが、レジ係の釣り銭間違いなどのリスクを考えると売る方としては面倒が少ないのでしょう。ただ、ミュージカルの幕間にバーで長蛇の列になっているときでも、いちいちこのカード端末で決済しているのは、ちょっとおしゃれでないようにも見えますが。
ところで、学会の参加登録、ミュージカルのチケット予約などもカードが基本なので、詐欺防止のためにいろいろな確認を求められます。まず不可欠なのは郵便番号(Post code)です。こちらの郵便番号はアルファベットと数字の組み合わせで、私の家はSW1P4AFですが、最初のSW1でロンドンの南西部であることがわかります。そして残りの数字と文字でストリートのレベルまで特定されます。このため、インターネットでは最初にハウスナンバーだけを入力(私の場合は10)し、郵便番号を入れると候補となる住居がプルダウンで出てきます。つまり、私の住む通りの「ハウスナンバー10」の家が全部網羅されているわけです。ここまで把握されているかと思うと、ちょっと気持ち悪いですね。
そして、カードの有効期間とシークレットコードを聞かれます。シークレットコードはカードの裏側に記入されている三桁の数字ですが、これとて一度知られてしまえばおしまいです。銀行によっては、決済の最終段階で銀行の認証サイトに飛び、あらかじめ登録しておいたパスワードを入力しないと完了しないという対応策をとっているところもありますが、これだけ何重にもセキュリティをかけると、当の本人がいくつものパスワードを覚えておかなければならず、利便性は低下します。
ところで、インターネットでパスワードなどの記入の時にcase sensitiveという注意書きが出ることがあります。これは「大文字小文字は別の文字として認識します」という意味です。日本だと全角半角の区別みたいなものですね。
さてこのカード・ワールド、いったいどこまで進むのでしょう。Suicaのような電子マネーは日本の方が先行していましたが、Oyster cardに電子マネー機能がつくのは時間の問題でしょう。このようなプリペイド・カードは入金してある金額以上に引き落とされることはありませんが、銀行口座に直結するデビット・カードは盗難のリスクに加えて、自分で使いすぎてカード破産に至る可能性もあります。とはいえ、支出の範囲内で使う限り、カードが1枚あれば国境を超え、通貨を超えて世界中で通用でき、現金を持ち歩く必要性がなくなります。
大銀行に銀行口座を持ち、定期収入が確保されている人にとっては、カード・ワールドが広がることは、世界がますます便利になることを意味します。しかし、銀行口座を持ちにくい人、定期収入が確保できない人は、世界中どこに行ってもカード・ワールドから排除されることになります。国ごとに通貨が異なり、別の国に行ったら心機一転新しいチャレンジが出来た世界の方が、多くの人に可能性が開かれていたという意味で、夢のある世界だったかもしれません。【2011/7/9】
日本語にすっかりなじんだカタカナ英語の意味をこちらに来て再発見することが時折あります。クリスマス前の商戦期に見かける"Xmas sale"もその一つです。このXはギリシャ語でキリストを意味する言葉の頭文字χ(カイ)から来ているのだそうです。そして、masはミサ、祝祭などを意味するMassだったのです。
さて、こちらでも(というよりはこちらが本場ですが)クリスマス前になると町中にクリスマス用の飾り付けが始まります。商業施設はもちろんですが、表通りにも様々なライティングが登場します。こうした公共空間の飾り付けも実はカウンシル(council)の仕事なのです。昨年(2010年)の12月初旬「チチェスターのカウンシルは予算削減のあおりを受けて今年のクリスマスの飾り付け(Xmas Lighting)を断念した」というニュースが流れていました。レポーターが飾り付けのないチチェスターのハイストリートでがっかりしている市民の声を伝えていました。
珍しい出来事なのでニュースになったのですが、今後は他の町でもこうした事態が発生するのではないかという懸念が表明されていました。支出削減はこんなところで人々に影響を与えます。どうやら飾りや電球自体はカウンシルの所有物があるのですが、取り付け費、電気代などのコストが賄えないので今年は「お蔵入り」と言うことのようです。「民間セクターにもお願いしたけれど、30万円が捻出できなかった」というカウンシルのコメントが出ていました。
日本ならデパートの飾り付けはデパートがやるし、商店街の飾り付けは加盟商店が負担するでしょう。市役所が町中のクリスマス飾りの負担をすることは考えにくいですね。しかし、こうしたところでイギリスが「キリスト教徒の国」であることを再確認させられます。キリスト教徒の最大のお祭りを公費で負担することは当然なのです。改めて見ると、国旗(Union Jack)はイングランドとウェールズとアイルランドのそれぞれの十字架を組み合わせたものですし、ロンドン市(city of London)の紋章も十字架が中心です。
東日本大震災の直後にも、この国が根っからキリスト教徒の国であることに気づかされることがありました。こちらの人は、世界のどこかで自然災害が発生したというニュースを見ると「かわいそうだ、何かしてあげなければ」と思うようで、条件反射的に「そうだ、お金を届けよう」ということになります。町の中心の広場や、駅前でバケツを片手に持って上下にじゃらじゃら振りながら募金を集める人の姿は日常的です。こうした募金行為はチャリティー(charity)と呼ばれますが、その目的が何であれバケツにお金を入れる人はかなりいます。
今回の震災では、イギリス中の人が津波の映像に圧倒されて「何かしたい」という気持ちが高まり、我々が日本人とみると「募金したいいんだが、お金を受け取ってくれるか」と町なかで声をかけてくる人さえいました。募金をしたくてしかたがないのです。サセックス大学で日本人留学生たちが募金をしたときにも多くの人たちがバケツに募金をしてくれました。そして、地元の教会からも募金の申し込出があったそうです。善男善女が日本の震災に心を痛めて日曜日のミサに募金を持ち寄ったのでしょう(日本人が募金依頼に行ったわけではないと思います)。さてどうやって日本の被災者に届けようかと考えたときに、サセックス大学の日本人学生が募金をしているというニュースを聞きつけたのでしょう。
しかし結果としてこの教会のお金は日本人留学生には託されませんでした。教会は直接英国赤十字(British Red Cross)に募金し、それが日本赤十字に送られたのです。日本人留学生の募金も日本赤十字に行ったので、どちらを窓口にしても良いように思いますが、そうではないのです。英国赤十字は、政府に「チャリティー団体」登録をしている組織なので、ここに募金をすると税金控除の対象になりますが、日本人留学生たちの方はにわか作りの団体でチャリティー団体登録などしていませんから、日本人に直接お金を渡すと税金分を損してしまうのです。
なんだか変な気持ちはしますね。もし「日本人を助けたい」と思うならそのお金も日本人の手に託した方が自然な気がしますが、制度がそれを阻むのです。というよりも教会がチャリティーの窓口となることが前提となっている制度なのです。実は、サセックス大学の開発研究所(IDS)も、このチャリティー団体登録をしています。ですから、IDSも募金を受け入れられるのですが、日本では研究所が「チャリティー団体」登録をするという発想はないですね。
いずれにせよ、この国ではキリスト教的博愛主義が人々の間に自然に存在しています。ただ、その博愛主義があくまでキリスト教的な倫理観、世界観に依拠しているところがやっかいなのです。2011年の「アラブの春」と呼ばれる一連のアラブ世界での民主化運動も、「民主化」と言うだけで無条件に支援の対象になります。オサマ・ビンラーデンはキリスト教徒を攻撃するので悪者です。サウジアラビアのイスラム法に違和感がある人たちにとっては、「サウジでは女性が車を運転できない」という報道が「抑圧されたかわいそうな女性たちを助けたい」という気持ちを刺激するのです。
開発援助を巡ってもキリスト教的世界観が基礎にあります。キリスト教を背景にする国際NGO(ほとんどの欧米系NGOはそうです)、英国国教会の代表者たる女王を頂く政府、毎週でなくても時には教会に通う市民の間には、「世界の貧困者を救う」という目標に向けた共通のキリスト教的世界観があるのです。日本は、政府と国民とNGOの間に共有された価値観は明示的には存在しません。だからこそ、国民のODA支出に対する支援も得にくいのでしょう。これに対してイギリスでは、支出削減の荒波の中でODA予算だけは増加しているのです。
とはいえ、アフリカに援助するくらいなら、国内の貧困者に食事を配給すべきだし、クリスマス飾りを維持するべきだという人ももちろんたくさんいるのですが。【2011/7/8】
漱石の小説もいくつか英語に翻訳されていますが、これは漱石が日本の「文豪」になった結果(供給主導)で、必ずしも欧米(英語世界)に漱石のファンが多いわけ(需要主導)ではありません。また、漱石が英語で小説を書いたことはないのではないかと思います。
サセックス大学開発研究所(IDS)の名物教授であるロバート・チェンバース先生(80才近いのにまだまだ元気)の自宅のバーベキューに招かれた時、先生の奥さんが、「私、ハルキ・ムラカミの小説をときどき読むわよ」と言いました。村上春樹がずいぶん翻訳されていることは知っていましたが、イギリス人の読者に会ったのは初めてでした。彼の本は日本語が出るとすぐに英訳されるようで、もちろん彼女はすべて英語で読んでいるわけです。英語にしても売れるだけの需要が十分にあるということですね。
続けて彼女は「でも、ムラカミよりもカズオ・イシグロがもっと好きなのよ」言いました。私はこの作家の名前を知りませんでした。調べてみるとカズオ・イシグロはれっきとしたイギリス現代文学の一流作家でした。1954年長崎生まれ、5歳で家族と渡英して以来ずっとイギリスで英文学を勉強したとのことです。つまり彼は、イギリス人と同じ土台に立って英語で書いているわけです。そこで彼の代表作と言われる『日の名残り(原題:The Remains of the Day)』を読んでみました。
舞台は1956年のイギリス、大英帝国華やかなりし頃からある「執事」という伝統ある職業が焦点です。第二次世界大戦後の英国の凋落、アメリカの台頭などの変化を受けて執事という職業が徐々に意味を失い始めた頃の、ベテランの執事の心に去来する様々な思いを丹念に書き綴った小説です。もちろん全く日本とは縁のない題材ですし、イギリス人だって普通はあまり興味も関心も示さない「執事」というきわめて「特殊イギリス的」な題材を扱っているのです。そしてその日常的な仕事内容まで克明に描写して、イギリス人読者のハートをつかんだのです。これは、どう理解すればいいのでしょう。
この小説の日本語版の解説を丸谷才一が書いていました(関係ありませんが、私がこちらで最初に読んだイギリス小説『ブライトン・ロック』の訳者は丸谷才一でした)。その中で腑に落ちた説明の一つは、「大英帝国の有為転変を、こんなにすつきりととらへることができるのは、(中略)外国系の作家なので、イギリスおよびイギリス人に対し客観的になることができるせい」だというものです。そして「ヘンリ・ジェイムスもコンラッドも、外国系の作家であるせいでイギリスの小説の伝統に深く学び、新しいものをそれに付け加へることができた」と言っています。なぜイシグロが成功したのかの説明としては説得的ですが、この場合、外国人であることは重要ですが、それの出自が日本である必然性はありません。
『日の名残り』を読んだあとたまたま、イシグロのインタビュー記事を見ました。日本のメディアが相手だったせいもあるかもしれませんが「自分の中の日本的なものを、そこはかとなく意識している」というようなことが言われていたように思います。欧米でも通用しているピアニストや、本場のフランスでシェフを張っている日本人などにもしばしば見られるコメントですが、その「日本的なもの」が何であるかを明確に示すことは困難です。「思い込み」である可能性だってあるでしょう。
このブログ『もし今漱石がロンドンにいたら』の原点は、20世紀初頭にロンドンで生活した漱石の「西洋における日本の不在」という慨嘆です。カズオ・イシグロの存在は、日英関係の成熟に伴う西欧文化への日本の侵入の好例です。そんなことが可能になるほど彼我の交流は進化・多様化しているということですね。
こういう状況でもし今漱石がロンドンにいたら、「いっちょう自分でも書いてみるか」と挑戦したに違いありません。題材は、バッキンガム宮殿の騎馬近衛の馬なんていうのは、どうでしょう。【2011/7/8】